書物という名のウイルス 第6回

メタバースを生んだアメリカの宗教的情熱――ニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』評

荒野にして楽園であるというアメリカの宗教的なイメージ

 ところで、『スノウ・クラッシュ』の核心にあるのは、オカルト的な《ハッカー史観》とでも呼べるものである。ヒロの調査によれば、古代の人類は「メタウイルス」に感染して、世界共通の文明を築いた。しかし、それが退屈なルーティンに陥ったとき、シュメール文明のエンキが新しいウイルスのコード(メ)を書いて、人類を二元的世界へと導いた。その結果、人類は共通言語を失ってバラバラの状態へと放り出される。聖書で言えば、アダムが知恵の実を食べたことがメタウイルスへの感染を示し、共通言語の喪失は「バベルの塔」の崩壊に対応するだろう……。このエイズの影響を思わせる疫学的かつ宗教的な人類史の原点にいるのが、ほかならぬハッカーである。

彼[エンキ]には、新しいメを書くというまれにみる才能があった――彼はハッカーだったわけです。彼は実際のところ、最初の近代人であり、自意識のある人間だった。ちょうど、おれたちのような。(下・300頁)

 文明の設計図(DNA)を書き換えるレトロウイルスのような技術者――この「最初の近代人」としてのハッカーが意識を生み出し、諸言語を生み出し、理性に基づく宗教を生み出し、精神と物質の二元的世界を生み出し、ついにはメタバースを生み出したというのだ(ちなみに、この架空の歴史観も、ニーチェの言う「最後の人間」、つまり「快適な自己保存と引き換えに、自分自身が優越した価値をもっているのだという誇りに満ちた信念を放棄した個人」への言及で締めくくられたフクヤマの『歴史の終わり』と興味深いコントラストをなしている)。

 こうして、『スノウ・クラッシュ』はハッカーを主役とする「創世記」のような様相を呈する。スティーヴンスンはハッカー文化の背景に、一種の宗教的情熱を認めた。あらゆる文明がプログラムの集大成であるならば、バイナリー・コードの操作に習熟したハッカーは文明の起源にほかならない――『スノウ・クラッシュ』のメタバースは、この崇高な秘密を格納した「無限の檻」(ウィリアム・ギブソン『モナリザ・オーヴァードライヴ』の言葉)として描かれたのである。

 してみると、『スノウ・クラッシュ』はきわめてアメリカらしい小説に思えてくる。かつてアメリカ文学者のレオ・マークスは、ホーソーン、メルヴィル、マーク・トウェイン等を例にとって、彼らが社会から逃避したいというユートピア的な田園願望を形にしつつ、そこに暴力的なマシーンを不意に侵入させたことを論じた(『楽園と機械文明』)。殺伐とした荒野のフロンティアでありながら、未知のアルカディア(楽園)でもある――このアメリカ特有の二重性が「田園のなかの機械」という奇妙に矛盾するイメージを生み出したわけだ。

 『スノウ・クラッシュ』のVR空間にも、まさに荒野にして楽園であるというアメリカの宗教的なイメージが投射されている。その限りなく自由で、限りなくダーティなフロンティアの秘密は、聖書や神話のレンズを通してはじめて理解されるだろう。スティーヴンスンはこの斬新なSFによって、メタバースを含む情報技術がいかに《アメリカという宗教》に突き動かされているかを示唆したのである。

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