鴻巣友季子が語る、マーガレット・アトウッド作品の魅力 「『侍女の物語』は警告の書だったのに対し、『誓願』は現実を映す鏡」
近年、ディストピア小説がブームだ。そのなかで再評価されている名作の1つが、マーガレット・アトウッド『侍女の物語』(1985年)。出生率が低下したアメリカで、キリスト教原理主義のクーデターによってギレアデ共和国が誕生する。出産能力のある女性は、強制的に子どもを産む道具=侍女にされてしまう。そんな設定の同作は、2017年にHuluでドラマ化され(『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』)話題になった。
そして日本では最近、『侍女の物語』のグラフィックノベル版や、女性たちがギレアデに抵抗する34年ぶりの続編『誓願』(2019年)が刊行された。翻訳家・文芸評論家の鴻巣友季子氏は、過去にもアトウッドの日本語版を手がけ、今年、『獄中シェイクスピア劇団』(2016年)、「老いぼれを燃やせ」(2014年)(「文藝」2020秋号掲載)、『誓願』とこの作家の作品を訳している。鴻巣氏にディストピア小説の潮流やアトウッドの魅力について聞いた。(10月16日取材/円堂都司昭)
――『侍女の物語』を最初に読んだ際の感想は。
鴻巣:ブッカー賞(世界的に権威のあるイギリスの文学賞)を受賞したアトウッドの『昏き目の暗殺者』(2000年)の邦訳(2002年)は、早川書房への私の持ちこみ企画でしたし、以前から注目する作家でした。『侍女の物語』を私が読んだのは1990年代後半だった気がしますが、ダーク・ファンタジーというか寓話的な書きかただし、今すぐこんなことが起きるとは考えませんでした。冷戦後の1990年代は民主主義が称揚され、これからいい時代がくるという空気がまだあった。自由と平等の旗手みたいなアメリカに「ギレアデ共和国」のような全体主義の政権ができるなんて、という感じでした。
『侍女の物語』の原書が1985年に出版された際、海外で多くの書評が出ましたけど、作品の良し悪しとはべつに、アメリカがこうなるはずがないと、懐疑的な反応でした。さすがに自分たちはこんな風にはならないと思いつつ、アメリカ人は読んでいた。でも、それ以前からキリスト教原理主義者の運動は、問題になってはいたんです。だから、アトウッドは着想を得て3年くらい寝かしてから、オーウェル『一九八四年』(ディストピア小説の古典)の時代設定でもあった1984年に当時いた西ベルリンでとうとう書き始めた。東西分断されたドイツの、壁に囲まれていた西ベルリンで書きながら、アトウッドは全体主義への流れを察知していたんでしょうね。
――前作の34年後に続編『誓願』が発表されました。時代の違いをどう感じますか。
鴻巣:アメリカのテレビ局のインタビューでアトウッドが、『侍女の物語』の時はこんなことは絶対に信じられないといわれたけど、今では足音が近づいているとみんなが感じていると答えていました。2017年1月にドナルド・トランプが大統領に就任する前、女性たちの大規模なデモがありました。そのプラカードには、「マーガレット・アトウッドは本のなかだけにしてくれ」、「『侍女の物語』をこれからのアメリカの青写真にしてはいけない」といった言葉がありました。小説に書かれた危機が近づいていると、30年以上かけてみんなが気づいたわけです。
『誓願』にも書かれていますが、人間はこれから空が降ってくるといわれても、空のかけらが降ってくるまで信じようとしない。『侍女の物語』は警告の書だったのに対し、『誓願』は予言の書というより現実を映す鏡。今ここで起きていることが書かれているという認識が、読者にもあるんじゃないですかね。
――『侍女の物語』が主人公の侍女の一人称だったのに対し、『誓願』はギレアデで女性を指導する立場のリディア小母、司令官の娘アグネス、カナダで育った少女デイジーという3人の視点から語られます。2作の違いは。
鴻巣:『侍女の物語』は一人称視点だったため、暗闇のなかを手探りで進むような視野狭窄感が味というか、魅力になっていた。『誓願』のあとがきにも書きましたけど、その前作が閉じる(closure)話だとしたら、今作は開いていく(revealing)話。蒙が啓かれる、視界が開けるなどいろんな意味で開く。『誓願』はアトウッドが80歳になる頃に書いたものですが、『侍女の物語』よりストーリーも文章も若々しい。語り手の年齢設定が若いだけでなく、若い子の喋りかたの書きかたまで堂にいっています。
――それぞれの登場人物が個性的で、スピード感があって冒険小説としても読めますね。今年12月に出るザミャーチン『われら』の英語訳には、アトウッドが序論を書くそうです。ディストピア小説として『われら』や『一九八四年』、オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』などがよく知られていますが、『侍女の物語』、『誓願』の特徴は。
鴻巣:ディストピア小説には、基本3原則のようなものがあるとわたしは思います。1つは生殖と婚姻のコントロール。2つめが言語と表現の統制、3つめが学術芸術の抑圧です。例えば、多和田葉子さんの『献灯使』には翻訳文学の禁止が出てきますし、『一九八四年』にはニュースピークという新しい文法を作ってしまう設定がありました。また、日本学術会議への政権の介入が問題になっていますが、『侍女の物語』、『誓願』では小母見習の若い見習いたちが本の絵や文字を検閲で塗りつぶすなど、言語抑制や文化・芸術への介入も大きく扱われます。言葉を奪われる物語であり、それを奪回する物語でもあるのです。
そして、いちばん目を引くのは、生殖と婚姻のコントロールですよね。高官の娘でもない限り、女性は「産む機械」「生殖奴隷」として使うか、家事労働者として働かせるかです。女性性を徹底して搾取するという酷い社会が描かれています。
――生殖についてザミャーチン、オーウェル、ハクスリーは合理化の観点から書いていますが、アトウッドは宗教の抑圧から語っていますね。
鴻巣:ジュール・ヴェルヌ『二十世紀のパリ』以来、男性作家によるディストピア小説は、産業を書いてきました。先端のテクノロジーによって社会のある面がダークサイド化する。一方、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』の場合、第二次世界大戦後すぐにクローン技術が成立したと架空の設定を導入したうえで1980年代、1990年代を舞台にした。そのように設定すれば、近未来的なギミックを舞台装置として出さなくてすむからではないかと、私は考えています。日本の作家では多和田葉子さん、川上弘美さん、村田沙耶香さんなどもディストピアを題材にしますが、いかにも未来生活でございますみたいなものは書かない。女性作家は先端技術よりも、日常生活に入りこんでいるシステマチックおよびシステミックな差別の正体をとらえようとする。今あなたがいる世界のすぐ隣にディストピアがありますよとわかる書きかたをするんです。
――夫も入信しているカルト集団に悪魔の子を産まされる『ローズマリーの赤ちゃん』や、キリスト教を狂信する母親に抑圧された少女の超能力が爆発する『キャリー』など、ホラーが題材にしてきた宗教の暗黒面を『侍女の物語』は国家レベルで展開してみせた印象がありました。
鴻巣:政教分離をしていない神権国家の恐ろしさですね。一宗派が政権を握り、巨大なカルト教団みたいになってしまう。敬虔なキリスト教信者を親に持って抑圧を受けるというのは、ふるくからある文学のテーマです。日本は決まった宗教をもたない人が多いですけど、一神教を多くの人が信じる国では、どこかの一宗派が政権をとってしまうのというのは、なくはない話なので恐怖だと思います。