『群像』編集長・戸井武史が語る、文芸誌と社会 「“時代”への問題意識を表現できる媒体に」
2020年1月号から大幅にリニューアルした「群像」が好評だ。「文×論」をコンセプトに掲げ、1946年創刊の伝統ある純文学の雑誌にかつての論壇誌の役割もとりこみ、新たな形の総合誌になろうとしている。「週刊現代」で社会を取材し、「小説現代」でエンタテインメント小説を担当した経験を今どう活かしているのか。文学や批評への思いについて、昨年6月に就任した戸井武史編集長に訊いた。(円堂都司昭/8月11日取材)
伝統がつながる「群像」ブランド
――2004年に講談社へ入社した段階から「群像」志望だったそうですね。
戸井:学生時代は、私もそうですが、周囲にも文芸誌を読んでいる人はあまりいませんでした。お金もなかったですし。ただ私は昔から純文学が好きだったので、就職を意識してからちらちら見はじめました。大江健三郎さんとお仕事がしたいと思ってました。就活は就職氷河期最後の世代で、結局2年やりました。氷河期といっても出版は他業界よりはマシだったと思いますが。1年目は、エントリーシートを眺めていても出版社ではあまり文芸が求められてない気がしてひとつも受けませんでした。大学でメディア論を勉強していたし、興味もあったので、政治記者になろうとしてうまくいかなかった。後がなくなった2年目には、大手を中心に出版社を軒並み受験して、講談社だけ受かりました。第一志望は……当時出版社は試験や面接の日程をかぶらせてくることが多かった、ということを小さな声でささやいておきます(笑)。
――「文×論」の根っこがいきなりみえた感じですね。「文」の文芸誌、「論」の新聞。
戸井:入社した以上、「群像」に配属されたいという思いは強かったですが、「修行してこい」と、「週刊現代」に配属されました。「群像」は、ここのところの編集長をさかのぼっても、純文学畑ではない人ばかりです。入社当時は、自分の文学観を形成している大江健三郎、中上健次、古井由吉など、ゴリゴリの純文学をやりたい気持ちがにじみ出ていたのが、会社にもわかったんでしょう。「週刊誌に行って社会経験をつませる」となった。「群像」の編集長になってから、「あれでよかっただろう」と当時の人事担当から言われました。それは実際その通りで、週刊誌にいると社会のふだん見えない部分も見られますし、自分で取材をしたり記事を書くこともあります。何より、自分の世代とか興味範囲外のことを知ったり、人に会ったりということが、いま大いに役に立ってます。とてもキツかったですが(笑)。
「週刊現代」編集部に5年、次に経済系ムック「セオリー」に1年いて、文芸の小説誌「小説現代」編集部に異動しました。「群像」だと思っていたんですが(笑)。ただ、同誌と単行本で10年間、エンタメ小説を担当し、「売る=届ける」ことの大事さを身にしみて感じて、実際に体験したことも、「群像」を作っていくうえで大きな影響を与えています。このままエンターテインメントの現場でやっていくと思っていたので、昨年の6月に「群像」に、しかも純文学の現場経験もないのに、編集長を、と言われたときには、驚愕しました。
――私は最初に知った純文学雑誌が、1970年代後半の「群像」でした。群像新人文学賞と芥川賞を受賞しベストセラーになった村上龍『限りなく透明に近いブルー』、栗本薫名義『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞をとった中島梓が群像新人文学賞の評論部門を受賞した『文学の輪郭』、これらが同時代文学の初体験でした。村上春樹が同賞を受賞した『風の歌を聴け』は「群像」掲載時に読みました。
戸井:錚々たる方々がこの雑誌からデビューされていますよね。掲載されてきた文章やとりわけデビューされたみなさんが形成してきた「歴史」がすごいので、いまの書き手のみなさんの「群像」に対する強い思いをひしひしと感じます。ぽっと出の私が編集長になっても、企画や原稿をお願いしたとき、多くの方に「もちろん」と言っていただける。書き手の恩師や憧れの人がかつて載っていたり、伝統がいまもつながっているブランドだと実感しています。
「群像」らしさとは何か
――戸井さんの入社前の90年代後半は、J文学の時代でしたが。
戸井:個人的な趣向になってしまいますが、同時代のものよりは、もっと前の作品を読んでいました。戦後派、第三の新人、三島・大江、内向の世代、中上健次、W村上――いかにも文学史的な、その本筋から派生する、言及される作品を読んでました。いま思えば、同時代の作品を読んでいる人は周りにあまりいなかったけれど、そうした文学史的な作品を読んでいる仲間はけっこういて話もできたし、それにまつわる批評もたくさんあった、というのが大きかったと思います。お金はなかったけど時間だけはあったので、タワーレコードやHMVで学校帰りにずっと視聴したり、サンプラーやフリーペーパーをもらっていたことのほうが、私にとって同時代のカルチャー受容の大部分でした。
――入社後は自分の仕事をしつつ、文芸のほうも気にはしていたんですか。
戸井:週刊誌配属当時は、私の机には文芸誌が毎月、嫌味のように積んである。週刊誌の仲間はそれを覚えていたから、異動の際、夢がかなってよかったねとメールがいっぱい来ました(笑)。それも目次を眺めることをしてたかしていなかったかぐらいで、目の前のことに追われ、徐々にその習慣も消えていきました。
――1990年代から2000年代の講談社は、新本格ミステリから西尾維新など「ファウスト」誌の新青春エンタ・新伝綺へという流れに活気がある時代でした。
戸井:当時の文芸編集志望者は、講談社ではまずエンタメ系を考えたと思います。東野圭吾さんや池井戸潤さんが出た江戸川乱歩賞は健在だし、新本格から西尾維新さんへの流れ、インパクトは強烈でした。でも、私はよく「逆張り」ということを考えることにしていて、たとえば、政治記者になるなら自分の思想傾向とは真逆に見えるところで自分らしさを出すほうがやれる気がした。エンタメ中心の会社で純文学をやったほうが、特性を出せると思いました。
――講談社内に文芸関係の部署は複数ありますけど、横の連携はどうなっているんですか。
戸井:10年前くらいまではある意味セクト主義というか、誰がどの担当かもわからない独立独歩状態(苦笑)。しっかり売れていた時代の名残だったと思います。でもその後、売り方や表現の仕方の工夫がかなり問われるようになってきて、部署を横断して協働で何かをしたり、部署間や文芸以外からの人材交流も増えたことで、効果的に連携をとれるようになっています。
――ゼロ年代には「ファウスト」から舞城王太郎や佐藤友哉が純文学に参入し、講談社BOXで催されたゼロアカ道場で新しい批評家が見出されました。エンタメ系媒体発で純文学が刺激を受ける状況があり、新本格を担当した唐木厚さんが「群像」編集長になりました。
戸井:純文学外からの起用というのは、純文学とそれ以外でかけ算せよということだと思います。たとえば、現代新書を経験していた佐藤とし子編集長の時代には社会的なテーマを扱う萌芽があったり、女性作家を中心的に掲載していた。さて自分は、と考えたときに、これまで見たり経験してきた「論」をかけ算して、総合誌を目指せばいいのではと考えました。
――戸井さんはエンタメで単行本も担当した。グリコ・森永事件を扱った塩田武士『罪の声』とか。
戸井:歴史も好きだったので、歴史時代ものが担当の半分くらいで、あと警察小説など社会にかかわる小説や作家の担当が多かったです。それまで雑誌しかやっていなかったので、「決戦シリーズ」という時代もののアンソロジーを企画したり、雑誌的な感性を活かせないかと思っていました。『罪の声』は、楽しかったですし、売れて読まれましたし、編集者としての自分を大きく変えた本です。新聞記者出身で同世代の塩田さんの力作に、それまで培ってきた自分の経験をすべて注ぎました。「社会」ということを強烈に意識した『罪の声』という作品といまだに続いているその関連事象にかかわったことで、「届いた/届く」という感覚を味わったのは大きいですね。
――東山彰良さんが『群像』リニューアル最初の1月号に短編を、塩田武士さんは9月号に石戸諭『ルポ百田尚樹現象』の書評を寄せています。
戸井:9月号には米澤穂信さんの掌編が載りましたが、ジャンルを越えた書き手に出ていただきたいと思っています。他部署の若手編集者にプランを出してもらうことも増えてきました。逆に「群像」よりも「小説現代」という媒体を使っていただいたほうが効果的ではないかとか、他部署との連携で発想と雑誌(表現)の回路がつながりやすくなりました。リニューアル後の「群像」で意識しているのは、他誌より項目もジャンルも多くすること。読み手にひっかかるタグを増やしたいんです。やみくもに頼むのではなく、「文章ありき」という自分たちの基準は編集部で共有できていると思います。たとえば、文芸誌ではあまり見ない「占い」で圧倒的な支持を受けている石井ゆかりさんに連載をお願いしたのもそうで、文芸誌の特性に合わせた文章を毎月いただいて、その反響は大きいです。従来の表面的な「群像」らしさみたいなものは意識しないようにしています。
――「群像」らしさの核とは。
戸井:実験できるところではないでしょうか。純文学の正統は歴史的にも他誌にあると思います。それに対し、たとえば高橋源一郎さんや多和田葉子さん、笙野頼子さんなど「群像」の新人賞出身作家の実験作が、それを明らかにしていると思います。歴代の編集長のもとで編集部がやってきたこともそうです。あとは、批評の重視だと思います。