大谷能生×吉田雅史が語る、近年の音楽書の傾向とその可能性 「ファクト重視で念入りに検証した批評が増えている」

大谷「逆に印象批評にも可能性はある」

左、大谷能生。右、吉田雅史。

吉田:話を音楽書に戻しましょう。大谷さんがいまされているような歴史検証がしっかりなされている書籍も含め、ここ5~6年はすごくレベルの高いものが増えている印象です。先日のインタビュー記事(DU BOOKS編集長に訊く、”濃すぎる”音楽書を作り続ける理由)でDU BOOKSの編集長も仰っていたけれど、今は切り口や視点が多少マニアックでも、好きな人に確実に手に取ってもらえるような資料性が高い本を作るのも重要なポイントなのかもしれませんね。

大谷:1500部とか2000部で、時間をかけてしっかり売り切るという商売をやっていくのが良いんでしょうね。今日、並んでいる本はどれもマニアックとしか言いようがないけれど、それでも買う人はいるわけで。小林雅明さんの『ミックステープ文化論』(2018年/シンコーミュージック)とか、読んでいて楽しかったな。こういう仕事をしてくれる人がいると助かります(笑)。

吉田:小林雅明さんが翻訳した『ラップ・イヤー・ブック』(2017年/DU BOOKS)も良かったです。1年ごとに1枚、ヒップホップの名盤を選んで語っていくという本なんですけれど、ちゃんと本が出版される直前の2014年まで語られているところが重要ですよね。ヒップホップを言語化しようとすると、どうしても70~80年代の黎明期だったり90年代のゴールデンエイジに集中して、90年代後半から2000年代以降となると体系的にまとめた資料が少ないので、その意味でもこの本は貴重かなと。日本でのヒップホップ需要でいえば、90年代後半以降、加速度的な商業的成功に伴うメインストリームを忌避するような形でアングラヒップホップの盛り上がりがあった。オーセンティシティを追求するヘッズたちが日本に多かったというのは大変アツい話だと思うんですが(笑)。だから2000年代から2010年代にかけて、アメリカで聴かれていたヒップホップのど真ん中はどこにあったのかを知る上でも、良い一冊だなと。いま僕はビートの歴史を辿る本を書いているんですけれど、ゴールデンエイジを掘り下げるのはもちろんのこと、スウィズ・ビーツやティンバーランド、ネプチューンズが出てきた90年代後半以降のビートメイキングについても厚めに分量を割いて書きたいんですよね。

大谷:ネオソウル以降のビートメイキングとヒップホップの関係性って、まだちゃんと整理されていない感じがあるというか、どれを読んでもいまいちスッキリしないところがあるんだよね。ヒップホップの文脈だけでは捉えきれない部分があって、もっと大きな流れの中で考えないといけないのかなと。imdkmさんの『リズムから考えるJ-POP史』みたいに、リズム分析的に語ることができる部分もあると思うけれど、こういうビートが出てきて、こういう歌い方ができるようになって、どういう風に踊るようになってというのを、歌も含めてポップスという大きな枠の中で捉えなおす作業は必要な気がするので、吉田さんの新しい本ではその辺りにも期待したいです。

吉田:たしかに歌を含めて考えると、まだ総括的に語ることはできていないように感じます。歌詞についてもそうです。『ナイトフライ』では、あえて歌詞に触れないと明言されていますが、歌詞の分析は印象批評に結びつきがちで音楽そのものを語ることにはならないという見方もあって、近年は書き手たちがむしろ避けてきたかもしれません。そうした中で、円堂都司昭さんの『意味も知らずにプログレを語るなかれ』(2019年/リットーミュージック)は歌詞だけを取り上げるという意味で、新鮮でした。我々日本人の大半はどうしても洋楽の歌を言葉よりも音として聴くはすで、だからこそ歌詞に対しての批評的なアプローチによって一層楽しめるようになる可能性があるわけですよね。例えばメタルの歌詞とかめちゃくちゃ面白い。竜の騎士がどうだとか、剣と魔法の世界を歌っていたりするのはメタルならではですよね。北欧メタルやヴァイキングメタルが北欧神話の世界観を取り上げたり、メタリカらがラヴクラフトを引用したり、トールキンの『指輪物語』の世界が参照されたりと、幻想文学やゴシックホラーとの親和性が高い。その一方で、現代社会に警鐘を鳴らすコンシャスラップばりのリリックもあったり、あるいは過激さが取り沙汰されることも多い。ジューダス・プリーストやオジー・オズボーンが自殺幇助で訴訟されたし、スレイヤーの歌詞はナチズムを美化していると批判された。元々メタル黎明期のブラック・サバスから悪魔崇拝的な側面があったわけですが、それがブラックメタルの興隆でシャレにならないレベルまで過激化して、教会への放火やバンド間やメンバー間の対立で殺人にまで発展してしまった。シーンの中で悪魔崇拝のリアリティが問われたわけで、その意味でギャングスタ・ラップやシカゴドリルの状況にも似ています。全く違う価値観に基づいているけれど、同じようにリアルさを追求して、その暴力性や過激さが一般社会からは糾弾されているという。

大谷:メタルの歌詞は「空耳アワー」でたまに流れてきたものくらいしか知らないけれど、ポップミュージック全般における歌詞の分析は、たしかにちゃんとやったほうがいいですね。

吉田:例えば先ほども話題に出たビリー・アイリッシュはヒップホップをリスペクトしていることもあって、歌詞表現の手法でいえば、歌ものの中でも一段と韻への目配りを感じます。歌詞の内容もポップアイコンとしてZ世代への共感を呼ぶ失恋や人間関係にまつわるものから、安易な共感を退けるように内に籠るものまである。そのようなリスナーから見たときのアンビバレントな歌詞世界はやはりヒップホップにも近しいと思うので、歌詞の表現手法と内容を、旋律やリズム、あるいはビートとの絡みといった音楽面に合わせて論じるようなことができたらいいですよね。

大谷:実はその日本版はやりたいと思っています。さっき話した戦前のポピュラー音楽史を踏まえて、「君が代」から分析していきたいなと。現行の「君が代」って、実はバージョン2なんですよ。最初の「君が代」は薩摩の軍楽隊が急ごしらえで作って、薩摩琵琶で歌われたんですけれど、そのあとにジョン・ウィリアム・フェントンというイギリスの軍楽隊の人が譜面に起こしている。おそらくそれが記録に残っている日本の歌を五線譜に残した1番最初の例なんですよ。その譜面も面白くて、薩摩琵琶だったからどう起こしていいかわからなかったんでしょうね、全部が2分音符で書かれていて、しかもメジャーコードになっていた。で、演奏してみてこれは違うだろうと、文部省とかがみんなで寄ってたかって作って、いまの形になったらしいです。当時は明治で、王政復古も謳われていた時代だから、国歌も日本風にするか西洋風にするか迷って、最終的に折衷案としてあの「君が代」ができたようです。そう考えるとポピュラー邦楽は、生まれた当初から日本の歌を違うシステムで歌うにはどうすればいいのかを考えてきたものなんだなと。日本のロックの様式を作ったのははっぴいえんどだと言われているけれど、譜面でみると単語一つひとつがきっちり16分音符で割れていて、つまりはブラックミュージックの作り方がされているんですね。そういう話を、それこそ宇多田ヒカルの歌詞についてまで繋げて、大きな枠で捉えてみたいとは思っているんです。

吉田:そういう枠組みで物事を捉えられると世界が広がるし、すごく面白いと思います。でも、そこまでダイナミックかつ作り込まれた批評が出てくると、いよいよ印象批評の役割はなくなってしまうのかなとも感じていて。今は個人のブログやTwitterで印象批評が溢れていて、だからこそ音楽批評の本ではファクト重視で念入りに検証したようなものが増えているけれど、個人的には筆者が妄想を膨らませて暴走してしまうような物語としての批評も好きなんですよね。

大谷:印象批評は情報が少ない時には役に立つけれど、今はダイレクトに情報が入ってくるから、工夫は必要でしょうね。昔はアイドルに会うなんてことはなかったら、会ってがっかりすることもなかったわけだけれど、今はそうじゃないわけで。音楽にカリスマを求めたい人にとっては辛い時代かもしれません。でも、逆に印象批評にも可能性はあると思っていて、その一つとしては謎を探し出す才能。作品から決して解けない謎を探して出して、それに対して迫り続けるというアプローチによって、新しい印象批評が生まれるかもしれない。あとは、哲学の方に行く感じだけれど、事実を集めて、それに対して人間はどうあるべきかとか、社会はどう変わるべきかという感じで印象批評を展開していく。そうなると物語構造になっていくので、読み応えはあるし、読者にとっても何かを考える手立てになるかもしれない。

吉田:哲学的な方向に行くのはありですよね。ポピュラーミュージックに即して考えることができる哲学や思想的な言説がなかなか見つからないから、いまだにアドルノなんかを引くわけですよね。最近だとヴェイパーウェイヴと加速主義の関係性なども紹介されていますが、マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち―うつ病、憑在論、失われた未来』(Pヴァイン/2019年)でのブリアルらの論じ方は思索的な批評の可能性を感じさせるものでしたし、源河 亨さんの『悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学』(慶應義塾大学出版会/2019年)が音楽美学の考え方を整理していて、それをクラシック音楽ではなく幅広くポピュラー音楽に応用することには可能性を感じます。

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