甲本ヒロト:ロックンロールでひっくり返す面白さ――重ねた変化と一貫した原動力 「今井智子 ロックスターと過ごした記憶」Vol.8
THE BLUE HEARTS、直感に語りかける歌で一気に全国区へ
「それは、ラジオからロックンロールを聴いたのがきっかけだったよ。“うわっ世の中って最高じゃん!”と思った。“生きたい、もっと美味しいものが食べたい、友達が作りたい、勉強ができるようになったらいいだろうな、やさしい人になりたい、かっこいい大人になりたい”、いろんなことをいっぺんに思ったよ。今もそこから変わってない。Manfred Mannの『ドゥ・ワ・ディディ・ディディ』。ひとつのきっかけだったんだね。子供から大人になるときに、いろんなことがあるとおもうけど、たまたまそう言うタイミングで、ロックンロールとリンクした瞬間があった。あまりにその瞬間が明確に突き刺さってくるからよく覚えてるだけで、みんなおんなじなんだ」(※1)
14才は自我が目覚める年頃だ。面白いぐらいに誰しもがその年齢あたりで自分が夢中になれるものに出会い、自分の価値観を構築し始める。それは他者との違いを意識することにもなり、迷いや葛藤も抱えるようになる。不安定な自分を繋ぎ止め、先へと進む勇気をくれるものに出会えたら幸せだ。ヒロトはそんな年頃のことを、こんな風に分析していた。
「オルタナティヴの存在を意識するんですよね。“生きていく道は他にもある。世界はひとつじゃない”みたいな――。あ、世界はひとつだけど、“社会はひとつじゃない”っていう(笑)。そこでただ何となく入ってくるんじゃなくて、“僕はコレが好きなんだ”っていうふうにチョイスし始める。そして“チョイスをしてもいいんだ”と自信が出始める頃なんじゃないかな。でもほんと大事なのは、そこで“チョイスを許された”って認識することなんだよね。でもそれが出来ない子供がいっぱいいると思う。“選んでいいんだろうか?”“ホントに僕は自分のセンスで選んでいいんだろうか?”“大人達の助言を聞いた方がいいんじゃないか?”“いろんなものを見て、マニュアルで勉強した方がいいんじゃないか?”っていうさ、不安に感じてる子がいっぱいいると思う。そこで自分の直感とセンスで“コレが好き!!”って言えるかどうかっていうのが、すごく大きいと思う」(※2)
「ロックンロールからもらった感動は一つたりとも褪せない」という言葉の通り、こうした思いを彼はそれ以前にも歌っている。THE BLUE HEARTSの「パンク・ロック」(1989年)だ。〈中途ハンパな気持ちじゃなくて/本当に心から好きなんだ/僕 パンク・ロックが好きだ〉。何のてらいも飾りもなく言葉そのままにパンクロックへの思いを歌うこの曲に出会って、打ちのめされた人は多いに違いない。私が小瀧橋通りにあった新宿ロフトで初めてTHE BLUE HEARTSを観た時にも、彼はこの曲を歌っていた。1985年、注目を集めているバンクバンドだと聞いて彼らが参加していたイベントを観に行ったのだが、この曲を聴いた時は正直に言って肩透かしを食らった気分だった。Sex Pistolsの登場で世界に広まったパンクロックは、日本でもs-ken率いる“東京ロッカーズ”などが1980年前後に活躍、次いでアナーキー(現・亜無亜危異)やザ・スターリン、LAUGHIN' NOSE(ラフィン・ノーズ)などが人気を得て新しいムーブメントとなった。私は初期パンクはそのあたりでひと段落した感覚があったので、THE BLUE HEARTSを観た時は“遅れてやってきたパンクバンド”という印象を受けたし、さらに「パンク・ロック」を聴いて“このバンドは本当にパンクバンドなの?”と思ってしまったのだった。けれど、そんな私の思い込みなど一瞬で吹き飛ぶ勢いで彼らは人気を高めて行った。この曲の凄さは歌詞の簡潔さよりもそれを全力で歌うヒロトの歌の力にある。それに気づくには時間がかかった。言うまでもないが、THE BLUE HEARTSは甲本ヒロト、真島昌利(Gt)、河口純之助(Ba)、梶原徹也(Dr)が1985年に組んだバンドで、1987年に『リンダ リンダ/僕はここに立っているよ』でデビュー、瞬く間に人気を得た。
THE BLUE HEARTSから↑THE HIGH-LOWS↓へ……甲本ヒロトが歩んだ“変化”
そんな出会いだったせいか、THE BLUE HEARTS時代にインタビューしたのは2回だけだ。当時の彼らはまだガードが固く4人揃っても話が弾まない取材だった。それでもライブを観に行ったり、イベントなどで顔を合わせるうちになんとなく打ち解けてくれたように思う。1989年に彼らが初の海外ツアーを行った頃、ちょうど他の仕事でLAにいて、(『Rolling Stone』誌だったと思うが)1ページ分のツアー告知が掲載されていたのを見た覚えがある。THE BLUE HEARTSのアルバムは現地でも話題になっていたようだったが、ライブを観ることはできなかった。このツアーが彼らにどんな影響を与えたか聞いた時には、こんな答えが返ってきた。
「関係ないでしょう。日本に住んでいる人たちにとって、僕たちがアメリカでリリースしようがどうしようが。だって今は少しお金があれば誰だってアメリカに行けるし演奏することもできるし、リリースするのだって、大メーカーのイチオシとかいうのでなければできることじゃない。だからそんなにすごいことじゃないんだ。大事なのは、向こうに行って、数人でもいいからブルーハーツを見て何かを感じたとか、そういうことでしょ?」(※3)
こうした言葉からは、パブリックイメージの重さに抗おうとするバンドの姿が見えてくる気がする。90年代に入りアメリカ西海岸ではDIYを標榜するパンクバンドが多数登場し、いわゆるメロディックハードコアのシーンを作りつつあった。THE BLUE HEARTSはそうした動きと呼応していたとも言えるのだが、特に接点は生まれなかったようだ。もしNOFXやBad Religionと接触していたら何が起きていたのだろう?
今でもヒロトたちは、人付き合いは悪くないが仲間を募ってつるむようなことはなく、静かに孤高を保っている。THE BLUE HEARTS時代は特に世間に対して斜に構えているようなところもあったが、ずっと後になってファッション誌の取材で着るもののチョイスなどについて話していたら、ヒロトはこんなことを漏らした。
「いろんな意味で、選ばないかっこよさもあって、選んでないことをかっこいいと思ってるだろって言われたら恥ずかしいっていうパラドクスも生まれてきて。なんでもそう。突っ込まれたら恥ずかしい。そういう意味で、ある時から楽になった。ブルハの頃は、自分で自分を苦しめてたところがあったような気がする。こだわりすぎ。自意識過剰だったんだなあ。今でもそうかもしれないけどブルハの頃は全開だったんだなあ。ハイロウズになる頃に、どうでもいいじゃん何もかも、って思った時があって、その頃からいろんな服を着るようになったし。どうでもいいんだよ。どうでも良くなきゃ、本当にこだわったらさ、街で売ってる服なんか着れないよ」(※4)
この取材は、↑THE HIGH-LOWS↓が活動を休止し、ヒロトは東京スカパラダイスオーケストラのシングル曲「星降る夜に」にボーカルで参加、さらに初のソロシングル『真夏のストレート/天国うまれ』のリリース直後だった。そんなタイミングだったからか珍しくTHE BLUE HEARTS時代を率直な言葉で振り返った。
「ブルハの頃は全開だった。恐怖ですよ。あの頃、朝起きたら、うがいする前にウイスキー飲んでたもん。抜けたことなかったし。そうしないと怖くて外に出られないんだもん。もう着るものから何から怖くなっちゃって。……そんなに意識しなくたって、誰もおめえのことなんか見てねえよ、って思ったのが、楽になったきっかけ」(※5)
↑THE HIGH-LOWS↓で精力的に活動しているにも関わらず、解散後もTHE BLUE HEARTSの人気は衰えることなく、むしろヒロトとマーシー(真島)はカリスマ的な存在として語られていた。現在の自分たちと過去の自分たちとが乖離しているような状態は、居心地のいいものではなかったのではなかろうか。それはザ・クロマニヨンズになってからも同様だ。
「ブルーハーツは、セイント。聖人になろうとしてた、それは無理(笑)。それこそ自意識過剰じゃん。だから、キモはね、デパ地下。ふつーにデパ地下に行って、おばちゃんと一緒に試食できるようになった。そういうところに行けるし、ここで喋れるようになったってことが、僕は大人になったなと思う」(※6)
パンクから解き放たれ、ロックンロールの荒野を突き進む
時系列を戻すと、1994年にTHE BLUE HEARTSは活動を休止、解散を発表して間もなく、ヒロトとマーシーは↑THE HIGH-LOWS↓を結成し活動を開始した。シングル『ミサイルマン』とアルバム『THE HIGH-LOWS』(ともに1995年)のリリース前にイベントに出演し、日清パワーステーションで初ワンマンライブも行っているが、そこでTHE BLUE HEARTSの曲を演奏することはなかった。きっぱりと2人はTHE BLUE HEARTSの曲を封印し、新バンドの曲だけを演奏した。新曲はいずれも軽快なロックンロールでTHE BLUE HEARTSよりもルーツミュージックへの視線を感じさせるものになっていた。ざっくり言えばパンクの呪縛から解き放たれロックンロールの荒野に突進していく、と言った感じだ。
「ロックンロールって、いろんな要素があって、なんでもありだと思うんだ。その中に自分を許容する免罪符のようなものを、僕はずっとロックンロールの中に見てる気がする。それでいい気になってるんだと思う、ステージで(笑)。ドッグランじゃないけどさ、“ここでは走んな!”って。ロックンロールのフィールドは、そんな気がするんですよ」(※7)
↑THE HIGH-LOWS↓は、まさにそんなフィールドに立ったバンドだったのだろう。THE BLUE HEARTSのように“パンク”のイメージにとらわれることなく、自分たちを解き放つべく新曲を作り続ける。そうすることで自分たち自身を上書きしているようだった。
「いろんなパターンの曲が出るのはいつものことだから、そこに制約を持たせることはアルバムを特徴付けることになる。だから、ハイロウズのアルバムは、ブルーハーツの頃からそうだけど、制約をつけなかったがために、非常に掴み難い、それから説明しづらい、このバンド何なんだろうって、理解され難いものをやってきた可能性はあるんですよ。ラモーンズみたいに、楽曲のスタイルに制約をつけた時点で、何やっても“わっラモーンズ!”ってあーでこーでかっこいい!って漫画に書けますよってことでしょ。そこに制約をどんどん外して、やりたいと思ったことをどんどんチャレンジしてみるってなった時に、あのバンド一言で言えないよねってなっちゃう」(※9)
THE BLUE HEARTS以前からヒロトもマーシーも幅広い音楽を聴いていたようだが、ロックンロールの魅力を解明するかのようにルーツミュージックを深掘りしていくように見えた。自分たちがこんなに夢中になり続けるロックンロールとは何なんだ? どんなマジックがそこにはあるんだろう? ロックンロールサウンドはどうやって生まれてきたのか、実際に自分たちで作ってみよう、そうしたら秘密を解き明かせるだろうか?……彼らのやっていることを見ていると、そんな思いが聞こえてくるような気がしたものだ。そう思うようになったのは、彼らがプライベートスタジオを作り、自分たちだけでレコーディングするといった方法を取るようになったからだ。↑THE HIGH-LOWS↓の4thアルバム『バームクーヘン』(1999年)が、一つの転機だったようだ。自分たちのスタジオで、レコーディングエンジニアさえ入れずに録音した。そうした理由について、ヒロトはこう言っていた。
「いつも思うんですよ。ゴッホはひとりで絵を描いたと思うんだ。“そこ黄色塗って”とか指示はしなかったと思う。それと同じですよ」(※10)
メンバーだけで作り上げた本作での経験が本当に大きかったようで、ヒロトは再三この作品について触れている。
「あのアルバムは、制約だらけだよ。エンジニアいないんだもん。ローディもいないんだもん。あの制約が、あのアルバムをくっきりと特徴付けたと思う。DIY的なものは、僕らずっと持っていた。ただ、『バームクーヘン』で見えたことは、今度エンジニアと組んだらこう言おうとか、こうやってもらおうとか。ひととの組み方が賢くなった。だからDIYのもう一歩先、が面白いんじゃねえかな」(※11)
アルバムのタイトル曲「バームクーヘン」は2025年に及川光博・手越祐也・白鳥玉季によるカバーがTVドラマ『ぼくたちん家』(日本テレビ系)の主題歌として起用された。鳥のように飛べないから〈ダラダラ歩く形〉と歌う肩の力の抜けた曲は、それまでと違ったヒロトを感じさせる。プライベートスタジオでのセルフレコーディングが、こんな曲を生んだのかと思いたくなる。振り返ればTHE BLUE HEARTS時代は「リンダ リンダ」をはじめ、若い世代に突き刺さる感情を揺さぶるストレートな曲が多いが、↑THE HIGH-LOWS↓時代にはブルースやラテンなど多彩なスタイルになっていく。それはヒロトやマーシーの中にあった音楽志向の発露とも思えるし、リズム隊とのすり合わせによってバンドのサウンドが変化したことも当然あるだろう。それによってヒロトの言う“制約のなさ”が発揮されているとも言えるのだが、THE BLUE HEARTSのように直球パンクを求める人には敬遠されたのかもしれない。けれど、そうやって自分たちのイメージを曖昧にすることで、↑THE HIGH-LOWS↓はマイペースに活動していたようにも思う。ライブハウスと1000~2000人程度のホールを回るツアーを毎年繰り返し、せいぜい日比谷野音(日比谷公園大音楽堂)でのワンマンや夏の野外フェスに参加するぐらいで、アリーナだのスタジアムは目指さない。そんなサイズ感が見ていて小気味いいのはザ・クロマニヨンズになっても変わらない。
心身を通して解き明かそうとする“ロックンロールのマジック”
↑THE HIGH-LOWS↓は10年の活動期間を経て2005年に活動休止した。THE BLUE HEARTSが10年で解散したことから、ヒロトとマーシーのバンド10年説が生まれることにもなったが、どちらも理由は明らかにされていない。恋人同士が別れる理由がひとつではないように、どんなバンドであれ休止や解散に理由は山ほどあるのかもしれないし、実は何もないのかもしれない。そしてヒロトとマーシーは2006年にザ・クロマニヨンズをスタートさせ現在に至っている。↑THE HIGH-LOWS↓がレコーディングを通してロックンロールの歴史を追体験していたとすれば、ザ・クロマニヨンズは楽曲そのものを通じてロックンロールの歴史を咀嚼し、敷衍(ふえん)しようとしているように思える。ヒロトのブルースハープを生かしたキレのいいブルースロックが増え、曲にはブルースマンの名前が歌いこまれたりする。そうした流れがあったからか、ヒロトは先輩ブルースマン 内田勘太郎(憂歌団)とブギ連を組み、これまでアルバムを2作リリース、イベント出演やツアーも行っている。
レコーディングやツアーをやっていない時の自分は死んでいるようなものなどと言うヒロトは、その言葉を体現するようにステージでは常にパワー全開で歌い叫び踊っている。そしてここまで書いてきたようにロックンロールのマジックを心身を通して解き明かそうとしているように思える。おそらく、それが何よりも楽しいのだろう。自分の曲の話より古いブルースのことを話したがり、時には音楽の話よりアートや映画の話になる。面白いことに、そんな時こそ彼の素直な言葉が溢れてきたものだ。音楽の話はしないという企画の取材で様々な話をするうちに、こんなことを言った。
「パンクはダダ。ダダイズムすごい感じる。ダダってそうじゃないですか。ウンコぶつけたみたいなさ(笑)、“これでも見てやがれ”みたいなさ(笑)。あれスノッブに捉えると非常につまらないもので、ゲラゲラ笑ってあげればいいんだと思うんだよ。だから僕がアメリカで(こんなものまで商品化するのかと思うような)おもちゃを見たときに“バッカじゃねえの?”って言ったのと同じものが、ミュージシャンとかあるじゃないですか。あれ笑うモンですよ。(中略)カッコいいことじゃない。まあそれはひっくり返すとカッコいいのかもしんないし、そういう価値観っていうのはさ、もうわかんないんだ。砂時計みたいにさ、どっちが上かわかんないんだ。だからどっちかがいっぱいになったら、ひっくり返さなきゃいけないんだよ。で、いちばん面白いのは流れてる瞬間だよね、サーッてどっちかに。カタルシスがあるじゃないですか。砂時計が満杯になる最後まで見届けてからプルッとひっくり返す。“誰がひっくり返すんだ?”っていうさ、それは自分でありたいじゃん。それはセックス・ピストルズであったように、ビートルズであったようにさ、砂時計をひっくり返すっていう作業。これはすべてをブチ壊す作業じゃないんだ、リセットしてるだけなんだ。ロックンロールって、そういうリセットできる才能あるヤツが時代時代に表れて、絶妙のタイミングで砂時計をひっくり返すんだ。そうすると価値観が崩れてすべてが壊れたように見えるけど、それはひとつの砂時計で、また同じことが起こってるだけなんだ」(※12)
The BeatlesやSex Pistolsが世界を驚かせたように、あるいはNirvanaがそうだったように、時代の砂時計をひっくり返す存在が出現する。織田信長や坂本龍馬もそうだったのかもしれない。エジソンやスティーブ・ジョブスもそうだろうか。THE BLUE HEARTSがそうだったと言う人もいるだろう。けれどヒロトが目指すのはそこではないように思う。歴史の上だけでなく、それは誰かの頭の中でも起こるからだ。ヒロトが「十四才」で歌った“スイッチ”が入る時、頭の中で砂時計がひっくり返るのだ。ヒロトは自分がそうだったように、誰かの頭の中の砂時計をひっくり返したいのだと思う。それがヒロトの原動力なのだ。だからロックンロールのマジックを解き明かそうと、様々なレコードを聴き漁り、アーティストの歴史に触れたり曲やサウンドの成り立ちを読み解いたり、そしてバンドを組んで曲を書き、自分たちの手で音源を作り続けている。今日も、ヒロトの歌を聴いて頭の中の砂時計がひっくり返った人が、どこかにいるに違いない。
※1:『smart』2007年10月号
※2、12:『WHAT'S IN?』2002年8月号
※3:『FM FAN』1994. no11
※4〜6、9:『smart』2006年8月号
※7:『smart』2004年10月号
※10:『WHAT'S IN?』1999年6月号
※11:『smart』2004年10月号取材時の会話にて
※12:『WHAT'S IN?』2002年8月号