鮎川誠&シーナ:鮮烈な音楽と互いへの愛を貫いた“至高のロックアイコン” 「今井智子 ロックスターと過ごした記憶」Vol.7
1979年、シーナ&ロケッツ初取材時の“驚き”
私が彼らに初めて会ったのは、シーナ&ロケッツが『真空パック』をリリースした1979年。YMO(YELLOW MAGIC ORCHESTRA)を結成した細野晴臣がプロデュースしたバンドと聞いて、芝浦にあったアルファレコードのオフィスで取材した。ライダースジャケットの鮎川とウルトラミニスカートのシーナが並ぶと圧倒的な存在感があった。しかし彼らを九州出身のバンドという程度しか知らなかった私は、細野がプロデュースするのだから斬新な音楽にアンテナを向けているニューウェイヴバンドだと思い込んでいた。1978年に初来日したエルヴィス・コステロの前座を務めたことも、そんな私の思い込みに重なっていた。ところが話を聞き始めると彼らはロックンロールへのこだわりをうかがわせ、ニューウェイヴにはあまり関心がないようだった。当時は耳慣れない久留米弁だったこともありギクシャクした取材になったが、バンド名の由来を聞いたら「ロックと、シーナの名前(本名)エツコを繋げてロケッツ」と、訥々とした口調で得意気に鮎川が言ったのが印象に残っている。スペルは「ROKKETS」、日本語では「ロケッツ」ではなく「ロケット」なのだとこだわっていた。”シーナとロケット”というバンド名ではなく、「シーナ&ロケット」がバンド名だということだった。そしてこのバンドでシーナが歌うようになった経緯の「シーナが自分で歌いたい、言うたけん。それいいね、ちゅうたね」という説明は、シンプルだけれどロマンチックだと思った。
「シーナはそれまで一度も歌うと言ったことはないし、頼んだこともない。でも“あたしも自分のレコードを作って聴いてみたい”とタクシーの中で言うた時、“いいよ、それ最高やね”ってなった。その時に全てのアイディアが始まった」(※1)
このバンドの前身となるサンハウス(1970年結成)のメンバーだった鮎川に、ロックに夢中な少女だったシーナは惚れ込みライブに足繁く通い、やがて親しくなって結婚した。シーナの実家で二人は暮らすようになり、間もなく女の子の双子を授かった。しかしサンハウスが解散し思うように音楽が続けられず苦戦していた鮎川がシーナの父親に勧められて単身上京、レコードデビューの機会を得た。他のボーカリストを入れてレコーディングしていたスタジオには、娘たちを実家に預けて鮎川の後を追ってきたシーナもいた。前述の初取材で、子供たちを預けて上京したと聞き驚いたものだが、のちに鮎川はこう言っている。
「俺たちはとにかく本当に勝負かけにいったんですよ。自分たちの音楽を聴いて欲しくて」(※2)
細野晴臣プロデュース テクノの洗礼を受けた『真空パック』で好発進
エルボンレコードから出たシングル曲「涙のハイウェイ」(1978年10月25日)が、シーナが歌った記念すべき最初の曲だ。このシングルのドラムはRCサクセション加入前の新井田耕造、ベースはサンハウスのメンバーだった奈良敏博。その後に浅田孟(Ba)と川嶋一秀(Dr)を迎えてシーナ&ロケッツとして活動を開始、前述したエルヴィス・コステロの初来日公演のフロントアクトを務めた際に高橋幸宏が楽屋に足を運んでいた。サンハウスとサディスティック・ミカ・バンドは共演したことがあり、高橋は鮎川に注目していたらしい。そして鮎川たちを細野に紹介する。YMOと同じアルファレコードからの初作で、前述の『真空パック』(1979年10月25日)は細野がプロデュースした。
「細野さんは、よう例えよったね、俺たちは最高の素材だって。バンドとして、ギターも弾けるアレンジもできる、セーノでやれる、最高にパンクなヴォーカルをシーナがやる。だけどもローリング・ストーンズやらブルースやらにリスペクトはものすごくある、1本筋が通ってる。細野さんはそげな俺たちを引き出す最高のシェフ。細野さんには失礼か知らんけど、そういう表現を使ったこともある。(中略)何やってもロケッツは俺たちの音になる自負があったから、何も知らんけど“テクノ、おお乗って行こうぜ!”って」(※3)
シーナもまた、その頃のことを自信満々に語った。
「基本的には全く一緒よ。ニュー・ウェイヴ的というか、そのやりかた、活力、あのエネルギーというのは、私たちにとっては宝やった。あの頃から、ニュー・ウェイヴでインターナショナルといったらおかしいけど、世界にこういうバンド、いてもいいんじゃない? ってそういう感じだから」(※4)
とはいえ60年代のロックやそれ以前のR&Bやブルース、ソウルミュージックに深く傾倒してきた鮎川にとって、コンピューターを使う細野のプロデュースは戸惑いを覚えるものでもあった。むしろシーナの方がそれを面白がっていたという。
「(細野のプロデュースは)嬉しかったよね。俺が認めとるミュージシャンでしょ、ミュージシャンがアドバイスするというのは全然関係ない人の根拠のないアドヴァイスとは違うからね。細野さんが『You May Dream』『Lazy Crazy BLUES』にシーケンサーでアレンジ組み立て直したいちゅうて。シーナはそれを気に入って“ヴォーカル入れん方がいい”ちゅうたぐらい。僕らがそういうテクノ的なのを取り入れるというのを気に入らんという人の意見が耳に入ってきたり、自分らもバンドがいつもやれんことをレコードでやっていいのかなと時々迷いが来たり、いやいいんだしたいことすればと思ったり。細野さんに“鮎川くん、スタジオでやれることは思い切りやってみようよ”って励まされて、“そうですね”って」(※5)
もしかしたら細野自身も同じような批判を受けたり迷ったりしたことがあったのではないだろうか。テクノポップで世界を席巻したYMO以前には、新しい日本語のロックを打ち立てたバンド はっぴいえんどの一員だったのだ。この転換にさまざまな声があったことは想像に難くない。だから鮎川に鼓舞する言葉をかけることができたのではないかと想像する。当然ながらこれによりシーナ&ロケッツは素晴らしいスタートを切ることになった。オーセンティックなロックンロールバンドというだけではなく、最新型のテクノの洗礼を受けたバンドという看板を掲げられたことは、彼らの大きな財産になったと言っていいだろう。
オノ・ヨーコ、鋤田正義、ボブ・グルーエンとも交流
鮎川もシーナも60〜70年代のロックが大好きだったが、それは彼らが若い頃に出会った“新しい音楽”だった。だからニューウェイヴやテクノも新しい音楽として興味を持って取り入れていったのだと思う。鮎川の新しいもの好きは細野の影響もあったのだろうが、早い時期にコンピューターを使うようになり、自身のウェブサイト「Rokket.WEB」を立ち上げ情報を発信、その体験を書籍化した『DOS/V BLUES』を出してもいる。
当時は女性ボーカルをフロントに据えたバンドが新しいトレンドだった。1979年に「Heart of Glass」がヒットしたニューヨーク出身のBlondie、西海岸ではThe Tubes(1970年の『大阪万博』に出演、1979年にロサンゼルスのグリークシアターでYMOと共演した)が話題だった。日本では夕焼け楽団を率いていた久保田麻琴がサンディー&ザ・サンセッツを結成、アート集団から生まれたPLASTICSが人気を呼んでいた。シーナ&ロケッツもそうしたバンドのひとつとして注目されていた。80年代に入るとマドンナやシンディ・ローパーなど強い個性を持った女性アーティストが登場するが、そうした流れともシーナは呼応していた。彼女のソロ作『いつだってビューティフル』が1982年にリリースされたが、ちょうどその時期に彼女は三女を懐妊、バンドは彼女抜きで活動し、その時のライブを収録した『クール・ソロ』を鮎川のソロ名義でリリースした。シーナ&ロケッツというバンドと、鮎川とシーナの2人が、それぞれクローズアップされるようになり注目も高まった。鋤田正義が撮った『MAIN SONGS』(1985年)のジャケットは、タバコに火をつける2人のアップだが、フォトジェニックな2人のロックな一瞬を切り取った素晴らしいショットだ。
「どこか散歩しようぜみたいな感じでいるのを望遠で撮ったヤツ。後で聞いたら、傍で見ると俺たちが(カメラを)意識して狙ったヤツ取れないんで、望遠で撮ったんだよって」(※6)
真っ白なスタジオで4人が演奏する様子を撮った「スウィート・インスピレーション」のMVも彼らの魅力をストレートに伝えていた。写真家のボブ・グルーエンも彼らを気に入り、彼の紹介で2人はオノ・ヨーコに会い、来日公演で共演もした。グルーエンのトータルコーディネートで『Happy House』(1988年)をニューヨークで録音した際に、グルーエンの連絡でオノ・ヨーコがスタジオを訪れ、大ファンのシーナは涙を流すほど感動したと自伝『YOU MAY DREAM ユー・メイ・ドリーム―ロックで輝きつづけるシーナの流儀』に記している。ちなみに1974年の『ワン・ステップ・フェスティバル』でプラスティック・オノ・バンドとサンハウスは共演していたが、当時は面識はなかったようだ。
『真空パック』から4thアルバム『ピンナップ・ベイビー・ブルース』(1981年)までYMOと同じアルファレコードから出した後、シーナ&ロケッツはビクターエンタテインメントに移籍する。社内でのレーベルは何度か変わったが、18作目『ROKKET RIDE』(2014年)までビクターに所属。全く移籍なしに活動を続けるアーティストは珍しい。そのあたりの事情を聞いたことはなかったが、スタッフとの信頼関係や契約条件が彼らにとって好ましいものだったからだろうか。
柴山俊之の作詞&鮎川誠の作曲が生み出す化学反応
鮎川とシーナが無類のロック好きになったのは、2人の生い立ちによるものだろう。父が米国軍人だった鮎川は、幼い頃は帰国した父が残したフランク・シナトラなどのレコードを聴き、やがてThe Rolling Stonesやマディ・ウォーターズを知り、母からもらったガット・ギターを弾き始めた。中学3年生でThe Beatlesに夢中になりTVで観た来日公演は細かなシーンまで頭に刻み込んだ。いくつかのアマチュアバンドを組んだのち、柴山俊之に誘われてサンハウスに参加、シーナと出会った。
米軍基地で働いていたシーナの父はダンスホールを経営しており、そこで育ったシーナは子供の頃から様々な音楽に触れていた。60年代に流行したガールグループに夢中になり、周囲の人たちの前で歌ったり踊ったりするのが大好きになった。のちに彼女が躊躇なくステージに立ったのは、そうした経験があったからだろう。やがて生バンドが演奏するクラブに出入りするようになりサンハウス、そして鮎川と出会う。その時のことをシーナはこう回想する。「ギターを弾くのが楽しくてたまらない、という彼の思いが、私にダイレクトに届く感覚に酔った」(※7)。その時にサンハウスが演奏した曲の一つがJethro Tull「Bourée」で、その曲をシーナが知っていたことに鮎川たちは驚いたとか。出会った時からマニアックなロック談義をしていたのだろう。
サンハウスは1975年に1stアルバム『有頂天』でメジャーデビューしたが3年ほどで解散、鮎川はシーナ&ロケッツを組むのだが、作詞家となった柴山は『真空パック』から鮎川の曲に詞を提供している。「ユー・メイ・ドリーム」をはじめ独特なダブルミーニングを多用する柴山の作風は、鮎川の楽曲によく似合う。柴山によれば鮎川との楽曲作りは、柴山の歌詞を鮎川に渡すかたちで作るのが常だった。
「サンハウスは最初の頃はブルースのカバーばかり。難しいけど歌詞さえ覚えればできそうで。でも挫折した。バンドを解散しようと思って、その前にやってないこと何かなと思ったらオリジナルだった。はっぴいえんどとか、もういたから、俺たちもオリジナルしてみよう、それでダメなら辞めようと。したら面白くなって、解散しようなんて言葉はどっかへ行っちゃった。最初に書いたのは『キングスネーク』(「キング・スネーク・ブルース」)。フォーク(ソング)の”空はいい天気お日様ポカポカ〜”みたいなのを自分でも書いて嫌になって、そうじゃないのをやろうと、ダブル・ミーニングとか使って。パッと歌って目立つか目立たないかだから、誰も歌ってないものにしようと思って、ブルースの歌詞が頭に残ってて、そこから始めた。バカにされたらどうしようと思いながらマコッちゃん(鮎川)に渡して。そしたらすぐに(曲が)できてきた。『かっこいいねえ!」って。そこから面白くなって、どんどん書いた」(※8)
「ユー・メイ・ドリーム」は柴山が作詞したものを、クリス・モズデルが補作した。
「俺が書いた詞が家にいっぱいあって、それをマコっちゃんが勝手に持ってった。そのために書いた詞ではなくて、たまたまマコっちゃんが持ってった詞をシーナ&ロケッツでやったらああなった。最初は全然知らんかったもん。他にも「センチメンタル・フール」とか「レイジー・クレイジー(・ブルース)」とか持ってったのが1枚目(『真空パック』)に入ってる」(※9)
YMOメンバーから山口冨士夫、BLANKEY JET CITYまで多岐にわたる交流
シーナ&ロケッツが注目されたことも影響したのだろう、1983年にサンハウスは再結成し、日比谷公園大音楽堂でのライブが『CRAZY DIAMONDS〜ABSOLUTELY LIVE』としてリリースされた。2010年には結成35周年記念としてオリジナルメンバー(柴山、鮎川、奈良、浦田賢一/Dr)が集結、この後も2代目ドラマー 鬼平こと坂田紳一も加わり再結成している。こうした活動を追っていくと北九州の独特で濃密なロック人脈を自ずと知るようになる。サンハウスやシーナ&ロケッツに続くバンドとしてザ・ルースターズ、ザ・ロッカーズ、ザ・モッズといったバンドが生まれ、さらにその後輩としてUP-BEATやMO'SOME TONEBENDER、NUMBER GIRLなどが続く。狭いエリアにバンドをやりたい若者が集い、先輩たちの背中を見ながら切磋琢磨してバンドを組んできた歴史は、話を聞くだけで面白い。
サンハウスはデビューしても上京せずに地元を活動拠点にしていた。それは彼らに先んじて上京し成功したチューリップや甲斐バンドといったバンドへの反発もあったかもしれないと思う。鮎川が上京しシーナ&ロケッツで活動を続けてからも、地元の仲間たちを大切にし久留米弁を捨てることもなかった。
「ロックって東京に行って商業ラインに乗って作るだけじゃない。憧れがいくら東京にあったとしても、自分の育った街を愛せんでさ。でも東京も好きなんよ」(※10)
一方、成功のきっかけを与えてくれた細野や高橋らとの交流も大切にし、彼らを通じて人脈が広がっていったこともシーナ&ロケッツにとって大きなプラスだった。前述の鋤田正義や「ピンナップ・ベイビー・ブルース」などの作詞を手がけた糸井重里など、多岐にわたる人たちが彼らと関わりを持っていた。「YMOから始まった遊び仲間に加えてもらって、いろんなミュージシャンとか面白い人と出会った」(※11)と語り、様々なライブの現場を通じてアーティスト同士の交流も広がっていったが、中でも鮎川にとって大きかったのは山口冨士夫との出会いだろう。
「山口冨士夫は僕たちも大好きで、ダイナマイツも勿論知っとるけど、京都の町をハーモニカ吹きながら歩きよるジャケットというか写真がとてもカッコ良くてさ、こんな人は凄い音楽やるに決まってると思って。もちろん村八分も聴いてたけど『ひまつぶし』ちゅうアルバムがすごいよくて。東京に行って、逢いたいミュージシャンの第一候補は、細野さんたちやら除けば、冨士夫と逢いたい、演奏してみたい、それより冨士夫に認められたい。なかなか会えん人やねと思ったけど、対談で初めて会って、なんだ(山口が)年下か、ちゅうことになって(笑)。その対談が終わった後に、“ロケッツのゲストで弾いてくれん?”という話になって、『メイン・ソングス・ツアー』の後半から冨士夫をゲストに入れて。その流れで『GATHERED』というアルバムができた」(※12)
この時のツアーの好調ぶりを受けてライブアルバム『CAPTAIN GUITAR AND BABY ROCK』(1986年)が作られた。今はなき渋谷LIVE INNと名古屋市民会館での実にホットなライブ音源で、聴きどころはもちろん、笑顔を浮かべながら互いの熱量をぶつけ合うような鮎川と山口のギターの応酬だ。その時のプレイを鮎川はこんなふうに語った。
「シーナが火に油をそそぐ歌を歌うんやね。シーナも冨士夫が大好きやったからね。冨士夫はシーナに頭が上がらん、俺は冨士夫に頭が上がらん、そういう図式がステージに見える、みたいに評されたことがあった。冨士夫はシーナに楯突くんよ。僕は冨士夫のやることなすこと全部カッコ良くて喜びよる。冨士夫の喜ぶようにしよる。バンドの出会いとしては最高やったね。僕も冨士夫もストーンズが心底好きでね。ミックとキースの作曲のしかた、ギターの入れかた、リズムギターの弾きかた、チャーリー・ワッツのドラムの入れかた、ビル・ワイマンのベースのノリかた。僕も夢中になって聞いとるけど、冨士夫もそういう高校時代があって。とにかく冨士夫と一緒にやれることが嬉しくて。ローリング・ストーンズに『Gathers No Moss』というアルバムがあって、それで『GATHERED』をタイトルにしたいというのがあった。僕らはストーンズ育ち、バンドってこれだよ、それでシカゴ・ブルースに行くんだ、それ以外は認めん、ぐらいの(笑)」(※13)
頑固なギタリストではあるが鮎川のダイナミックで個性的なプレイを愛した人も多い。彼が関わった楽曲をコンパイルした『VINTAGE VIOLENCE〜鮎川誠GUITAR WORKS』が2024年にリリースされ、BLANKEY JET CITYと1999年に録音した「I'M FLASH “Consolation Prize” (ホラ吹きイナズマ)」が話題になったが、YMOとの初仕事だった「Day Tripper」や、原由子のソロ作『Miss YOKOHAMADULT』(1983年)収録の「ヨコハマ・モガ」など多彩な曲が収録されている。このソロ作とは関係ないが、「I’M FLASH」にインスパイアされた豊田利晃監督の同題作のテーマ曲として、鮎川をリスペクトする面々によるI'M FLASH! BAND(チバユウスケ/Vo、中村達也/Dr、ヤマジカズヒデ/Gt、KenKen/Ba)の映像が公開されている。
鮎川誠&シーナの意志はファミリーに受け継がれる
シーナが声帯ポリープの悪化で呼吸困難になり一命をとりとめたのは2009年。その前から病状を隠してステージで歌っていたという。手術を経て奇跡の復活を果たし、再び歌う喜びと家族との幸福な時間について記したのが自伝『YOU MAY DREAM ユー・メイ・ドリーム―ロックで輝きつづけるシーナの流儀』だ。シーナ&ロケッツは順調に活動を再開し、デビュー35周年を迎えた2013年には全国ツアーを行った。
「シーナがおればなんでもできる。デビューするかしないかの頃、『君らすごいぜ、二人いたらなんでもできる』と言われたことがある。その言葉をいつも噛み締めとったね。もうひとつ、バンドは音で勝負。何か根回ししてヒットチャートに入るからバンドが生き延びるとかそういうことやなくて。チャック・ベリーやらルーファス・トマスの曲を、俺の気に入ったマーシャルとレスポールと、シーナがその場で決める歌い方、その場でお客さんの空気を全部変えてしまう。そういう歌のバックが俺。ギターと歌が凄い自慢やね」(※14)
翌年には6年ぶりの新作『ROKKET RIDE』をリリースしライブも精力的に行っていた。その頃のシーナは子宮癌が見つかっていたにも関わらず、家族以外には伝えずステージに立ち続けた。鮎川と並んで歌うことが彼女の生きる力になっていたのだろう。2015年2月14日、シーナは天に召されたが、鮎川は奈良と川嶋とともにバンドを続けることを表明、三女 LUCYがボーカルを務めることもあり、新たなファミリーバンドとして歩み出していた。鮎川がシーナの元に旅立ったのは2023年1月29日。この2〜3カ月前に、変わらず黒のレスポールを弾く鮎川のステージを観ていただけに突然の訃報に驚いたものだ。
ロックとともに生きた鮎川とシーナの思いは、今もシーナ&ロケッツの名で仲間と娘たちによって受け継がれている。
※1、5、6、11、12、13、14:『ミュージック・マガジン』2015年5月号
※2、10:『シーナの夢 若松,博多,東京,HAPPY HOUSE』
※3、4:『GB』2001年4月号
※7:『YOU MAY DREAM ユー・メイ・ドリーム―ロックで輝きつづけるシーナの流儀』
※8、9:柴山俊之『ギラギラ』付属DVDインタビュー