山下達郎、竹内まりや、ラ・ムー……シティポップブームの知られざる立役者、“幻のシンガーソングライター” 滝沢洋一の功績

シティポップブーム立役者 滝沢洋一の功績

 2010年代後半頃よりネット発のブームとして起きた、日本の1970年代後半から80年代にかけて発表された都会やリゾートをイメージさせるソウルフルで洗練された音楽“シティポップ”の世界的ムーブメント。このブームは現在、その流れを受けたジャパニーズフュージョンブームに移行したことで落ち着きを見せつつあるが、それでもシティポップを代表するアーティストである杏里、松原みき、山下達郎、竹内まりや、大貫妙子、角松敏生などによる楽曲は、音楽の世界でひとつのジャンルを確立し、すでにスタンダード化したと言っても過言ではないだろう。

 しかし、そんな世界的ブームの陰で、シティポップ黎明期の70年代半ばから90年代初頭までのあいだに、シティポップを世界的なブームに押し上げる大きなキッカケを作ったひとりの人物が存在していたことをご存じだろうか。それが、“幻のシンガーソングライター”とも言われる作曲家・滝沢洋一である。

奇跡的に集まったレジェンド級のミュージシャンたち

 1950年生まれの滝沢は、高校時代からシンガーソングライターを目指して作曲活動を開始し、1974年に24歳でRCAと契約して作曲家デビュー。その後、YMOの“生みの親”である作曲家・村井邦彦の経営する音楽出版社アルファ・ミュージックと契約し、1977年にはハイ・ファイ・セットに「メモランダム」、1978年にはサーカスへ「アムール」を提供した。しかし、その後はヒット曲に恵まれず、ここ数年の世界的シティポップムーブメントが訪れるまでは知る人ぞ知る“幻”の存在であった。滝沢は2006年4月20日、持病の肝炎により56歳の若さで亡くなっている。

 しかし、滝沢は1976年当時に暮らしていた学生寮の後輩から紹介されたミュージシャンを、自身のバックバンド「マジカル・シティー」に誘ったことで、のちの世界的シティポップムーブメントにおける大きな偉業を成し遂げることになる。

 そのバックバンドのメンバーとは、以下のような顔ぶれである。

<滝沢洋一とマジカル・シティー>
ボーカル:滝沢洋一(25歳)
キーボード:新川博(20歳)
ドラム:青山純(18歳)
ギター:牧野元昭(19歳)
ベース:伊藤広規(21歳)
※年齢は76年1月の結成当時

 シティポップ周辺の音楽に詳しい方であれば、この顔ぶれを見ただけで、いかに豪華なバンドだったかお分かりいただけるのではないだろうか。しかも、彼らは当時まだプロのミュージシャンとしては活動しておらず、レコーディングを経験したこともないアマチュア時代である。

滝沢洋一
左から滝沢洋一、牧野元昭(中段上)、青山純(中段下)、新川博(右)(1976年)

 ドラムの青山純、ベースの伊藤広規のふたりは、バンドが自然消滅したあとの1979年に山下達郎バンドへ加入し、山下の出世作『RIDE ON TIME』(1980年)のサウンド作りに貢献することになる。

 そして、青山&伊藤が山下の“黄金リズム隊”になったことで生まれたのが、あのシティポップを代表するアルバム『FOR YOU』(1982年)だった。つまり、山下の『FOR YOU』で「MUSIC BOOK」を除く全曲で演奏した“黄金リズム隊”のふたりは、滝沢のバックバンドをキャリアのスタートとして音楽活動を開始していたのである。両者は、山下の代表曲「クリスマス・イブ」、そして竹内まりや「プラスティック・ラブ」などのリズム隊でもあることは言うまでもない。世界中の音楽ファンを熱狂させた達郎&まりや夫妻のシティポップサウンドは、彼らによって紡ぎ出されたということに異論の余地はないだろう。

山下達郎「SPARKLE」Music Video (2023)
竹内まりや - Plastic Love (Official Music Video)

 山下は2022年にインタビュー出演した『関ジャム完全燃SHOW』(テレビ朝日系/現・EIGHT-JAM)のなかで、自身の『FOR YOU』制作秘話として、「SPARKLE」をはじめとする彼らとのレコーディング曲は全て山下、青山、伊藤の3人で先にリズムパターンから作り、それを基にあとからメロディと歌詞が作られたことを明かしている。

 さらに、いま海外のシティポップムーブメントにおいて絶大な人気を誇る菊池桃子のバンド「ラ・ムー(RA MU)」の唯一作『Thanks Giving』(1988年)ほぼ全曲をはじめ、1986オメガトライブ(カルロス・トシキ&オメガトライブ)、ハイ・ファイ・セット、中原めいこ、荻野目洋子、西城秀樹、本田美奈子ら数多くのアーティストの楽曲を80年代から90年代にかけて編曲し、歌謡曲全盛期に大ヒットへと結びつけたアレンジャーの新川博もまた、プロミュージシャンとしてのキャリアをスタートしたキッカケは、滝沢のバックバンドのキーボードとしての活動だった。新川の奏でる金属音のようなシンセの音色は“クリスタルサウンド”と呼ばれ、近年の世界的シティポップムーブメントを受けて再評価が高まっている。

 また、ギターの牧野元昭は、後にCharが参加することになるバンド「バッド・シーン」のギタリストとして15歳でデビュー。杉真理のデビューアルバム『Mari & Red Stripes』(1977年)にも青山、竹内まりやとともに参加している。1986年にはギター留学のため渡米し、グラミー賞を受賞したブルースハープ奏者シュガー・ブルーのバンドに音楽監督/ギタリストとして14年も在籍した伝説のギタリストだ。

 新川は1974年頃、伊藤も在籍していた慶應義塾大学のディスコバンドに、まだ高校生だった青山をボーヤ(楽器運び)として誘ったことで伊藤と青山が邂逅。しかし、このとき青山はメンバーではなかったため伊藤との共演は実現できていない。彼らが一緒に演奏することになるキッカケとなったのが、滝沢のバックバンド「マジカル・シティー」だったのである。

 新川、青山、伊藤、牧野の4人は新川の呼びかけによって集められ、彼らが滝沢のバックバンドに集合したことで、大きな“シティポップの円環”が繋がってゆくのである。

名曲「最終バス」が呼び込んだ、シティポップ“奇跡の縁”

滝沢洋一
滝沢洋一(1981年)

 滝沢は1976年、結成したマジカル・シティーとともに、西城秀樹や和田アキ子をブレイクさせたRCAの契約プロデューサー・ロビー和田(和田良知)のプロデュースで、RCAからバンドとしてデビューするためのデモ録音を複数回おこなったが、ここでメジャーデビューを実現することはできなかった。

 しかし、プロデューサーの和田は諦めなかった。

「うち(RCA)では出せなかったんだけど、アルファでどうかな?」

 和田は、村井のアルファ・ミュージックに、彼らが演奏した「最終バス」という曲のデモを持ち込んだ。これがアルファ社員の粟野敏和の耳にとまり、滝沢がアルファと作曲家契約を結ぶことになる。そして、アルファと繋がったマジカル・シティーの4人には、デモテープ作りのバイトやライブ演奏の仕事が与えられ、初めてプロとして活動を開始することができたのである。

 その後、新川だけがハイ・ファイ・セットのバックバンド「ガルボジン」に移籍した1977年、滝沢にソロアルバム『レオニズの彼方に』(1978年)を制作する話が持ち上がった。佐藤博が全曲アレンジを手掛けた同アルバムは、発売当初まったく売れず無名のままだったが、2000年代に入って音楽ライターの金澤寿和がこれを“発見”。2015年に初めてCD化されたことで“奇跡のシティポップアルバム”として現在も高く評価されている。このアルバムのスターターは、縁を繋いだ滝沢の「最終バス」だ。

 青山&伊藤の“黄金リズム隊”コンビは、このアルバムの「ラスト・ストーリー」で共演し、シティポップの文脈においてレコーディングデビュー。その後、アルファ繋がりの人脈によって79年に山下と邂逅することになる。滝沢とバックバンドのメンバーが一緒に作り上げた「最終バス」という楽曲が、アルファとの縁を繋いだ“奇跡”であった。

滝沢洋一
レオニズの彼方に

 山下や大貫らのシュガー・ベイブによる歌声が小さなライブハウスで響いていた1975〜6年頃、そして大瀧詠一が彼らの楽曲を吹き込んでいた当時、もうひとつの“風”が誰にも気づかれず、しかし確実に吹いていたのである。

 “風”はその後、偶然にもひとつになり、やがて大きな“うねり”となって日本中はおろか、今や世界中に吹き荒れている。その日が来るまでに、実に40年以上もの月日が必要であった。

 また、新川はハイ・ファイ・セットのバックバンドに移籍したことで、アルバム『Coming Up』(1978年)で全曲アレンジを経験。これがきっかけで専業アレンジャーの道へと進むことになった。

 もしも、滝沢の書いた「最終バス」を和田がアルファに持ち込まなければ、またアルファがこの曲を採用していなければ、日本のシティポップ史、そして今や“世界のシティポップ史”とも言うべきものは大きく変わっていたことだろう。

 その後、滝沢は1992年頃まで作曲家として数多くのアーティストに楽曲を提供。近年、滝沢がブレッド&バター、サーカス、いしだあゆみ、西城秀樹、松本伊代、小泉今日子、石川秀美、岩崎宏美、ビートたけしらに提供した100曲以上の楽曲は、各種ネットサービスの普及によって世界中で聴く機会が与えられ、“隠れたシティポップの名曲”として評価されている。

 では、滝沢の作曲した楽曲の魅力は、一体どこにあるのだろうか。ユーミンこと荒井由実(現・松任谷由実)の『ひこうき雲』(1973年)、『MISSLIM』(1974年)など数多くの名盤を手がけたことで知られるアルファレコードの名物プロデューサー・有賀恒夫は、生前の滝沢に最も多くの楽曲を依頼していた人物である。有賀は、滝沢作品の魅力について次のように語った。

「滝沢くんが出してきた曲に対して、ダメ出ししたり、こっちで直した記憶はないです。最初から完成度が高いんですよ。普通、サビはいいんだけどそこまでのAメロが面白くない、サビまで持たない曲が多いんです。だけど、彼の持ってくる作品は本当によかった。駄曲がないんです」

 滝沢の楽曲について「コード感が広く、メロディも思うがままに豊かで、全体的に目鼻立ちがしっかりしていて秀曲が多かった」と振り返る有賀は、作曲家・滝沢洋一の才能を認める“良き理解者”であった。そんな有賀の後ろ盾もあり、滝沢は、代表曲であるハイ・ファイ・セットの「メモランダム」をはじめ、多くの歌手やタレント、アイドルたちに曲を提供をすることになったのである。

42年の時を経て発見された、幻のシティポップ「かぎりなき夏」

 滝沢が亡くなって15年が経った2021年、滝沢の歌う「かぎりなき夏」という楽曲を収録したオープンリールテープが、滝沢の自宅から奇跡的に発見された。これは、1982年に発売予定も“お蔵入り”となった幻の2ndアルバム『BOY』(2024年12月にCDおよびアナログ盤で初リリース)に収録予定だった曲で、お蔵入りのため1984年に西城秀樹へ提供されるという数奇な運命をたどった曲だ。

滝沢洋一
BOY

 西城版「かぎりなき夏」は、シティポップブームの先駆者である米シカゴのDJヴァン・ポーガムによって2019年に“発見”されたが、滝沢宅から出てきた音源は本来なら1982年に世に出るはずだった滝沢歌唱のオリジナル版である。

 運良く劣化を免れたこの1982年当時のオリジナルMixの音源は、2024年12月25日にアナログシングル盤としてワーナーミュージック・ジャパンより発売された。ジャケットには、シティポップを代表するイラストレーター・鈴木英人のオリジナル作品「終わりなき夏と」が採用され、株式会社まぐまぐのサポートを受けて42年ぶりに“封印”が解かれたことで日の目を見たのである。

 来年2026年は、滝沢が56歳で亡くなってから20年目の年であり、さらにバックバンド結成から50年目という節目の年でもある。世界的シティポップムーブメントにおける滝沢の“偉業”が可視化されたことは、日本の(今や世界の)音楽史上に新たなページが書き加えられたことを意味する。

 失われた50年間を経て、ようやく滝沢洋一とマジカル・シティーの「かぎりなき夏」が始まる。

滝沢洋一
かぎりなき夏

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