西城秀樹、ピンク・レディーら手掛けたレジェンド 稲垣次郎 90歳の今振り返る激動の時代と海外での再注目

 1933年生まれのレジェンド・ジャズ・ミュージシャンで、今や世界中のレコードマニアやDJのあいだで注目を集めている稲垣次郎の音源がフランスの新興レーベル 180gにより『WaJazz Legends: Jiro Inagaki - Selected by Yusuke Ogawa (Universounds)』として今年リリースされた。そのタイミングで行った稲垣次郎本人への取材の後編をお送りする。

『WaJazz Legends: Jiro Inagaki - Selected by Yusuke Ogawa (Universounds)』

 1970年代のロックやファンクが台頭し、ジャズに影響を与え始めていた時期、ジャズに精通しながら、当時のロックやソウルやファンクの新譜をもチェックし、分析し、それを作品として発表していた稲垣次郎はその知識と経験を買われ、ハイブリッドなジャンルの寄稿者が不足していたジャズ専門誌『スイングジャーナル』『アドリブ』でレビューを書いたり、座談会に加わったりしていた。稲垣はジャズ・ミュージシャンであるだけでなく、ジャズ・ロックやジャズ・ファンク評論の最前線にいて、アメリカの最新の音楽を日本に紹介する役割も担っていた。

 また、西城秀樹やピンク・レディーのバックバンドを務め、日本の歌謡曲のなかにファンクやディスコの要素が入っていく過程に稲垣は大きな貢献をしていた。特にピンク・レディーがモータウンなどを含めた数々の洋楽ヒットを取り上げる際には、稲垣の知識や経験が欠かせないものになっていた。

 稲垣次郎という人は掘り下げれば掘り下げるほど、面白いエピソードが出てくる人だと思う。まさに生き字引だ。本稿は、そんな稲垣が激動の1970年代を語る記事の後編になる。(柳樂光隆)

▼インタビュー前編はこちら

西城秀樹、大滝詠一ら支えたミュージシャン 稲垣次郎 90歳の視点で語る日本ジャズ史と海外からの評価

2000年代に起こった日本のジャズの掘り起こしと再評価により、日本のジャズロック史を築いたミュージシャンのひとり・稲垣次郎が注目…

1933年生まれの稲垣次郎が影響を受けたミュージシャンと理想のグルーヴ

――1970年代の稲垣さんが考えていた理想的なグルーヴのリズムセクションはどういう人たちだったんですか?

稲垣:70年代半ば、最も影響を受けていたのはザ・クルセイダーズ。だから、スティックス・フーパーのドラムやウィルトン・フェルダーのサックス、チャック・レイニーのベースを理想としていたね。

――『Funky Stuff』ではクルセイダーズの「Scratch」をカバーされています。どんなところがお好きでしたか?

稲垣:クルセイダーズもはじめの頃は、素人の集まりみたいだったんだよ。学生の子が集まってやっているようなね。

――まだ「ジャズ・クルセイダーズ」と名乗っていた頃ですよね。

稲垣:そうそう。ジャズ・クルセイダーズの頃は、あまりよくないよね。だけど、ウィルトン・フェルダーとジョー・サンプルはよかった。はじめはギターがいなかったけど、そこにラリー・カールトンが入ってきた。ウィルトン・フェルダーとスティックス・フーパーにインタビューをしたことがあるんだけど、彼らは「テキサスファンクというものがある」と言うんだ。それはなんだと聞いたら、「説明ができないけど、テキサス出身の人間じゃなかったら、あのファンクはできない」「だから、そこらへんでやってるのはみんな偽物だ」とはっきり言っていたよ(笑)。

――へえ、面白い。ファンクなサックスだとウィルトン・フェルダーの名前は出てましたけど、メイシオ・パーカーはどうですか?

稲垣:ああ! メイシオは好きなんだけど、ジェームス・ブラウンの音楽は退屈に感じたんですよ。メイシオは上手いと思うけど、JBでやってるのは好きじゃなかった。JBのところでやると、好き勝手やらせてもらえないから。たとえば、ローリング・ストーンズ(の『No Security』)でジョシュア・レッドマンが吹いていたり、パーラメントにブレッカー・ブラザーズが入っていたりすると、上手いな、いいなって思ったけどね。

――マイケル・ブレッカー、お好きでしたか。マイケル・ブレッカーはソウルフルですもんね。

稲垣:『東京JAZZ』の前身みたいなイベントにマイケル・ブレッカーが出るということで行ったんですよ。あのブレッカーには驚いたな。あとジョシュア・レッドマンは、『東京JAZZ』の時に途中から飛び入りでポピュラーな曲をやったんですよ。ものすごかったね。

――70年代にはクルセイダーズみたいな音楽を日本で再現するのはすごく難しいけど、『Funky Stuff』などでチャレンジしたわけですよね。それなりに上手くいっていた自信はありますか?

稲垣:ない(笑)。行き当たりばったりだったから。

――ご自分ではあまり納得いってないんですね。

稲垣:ほとんどいってないね。レコーディングにかける時間が短すぎた。しっかりと作り込んだらもっとよくなるのにな、と。ほとんど1日、2日で完パケをさせちゃうような状態で、流れ作業でやっていたから。

――「流れ作業で」というのは、日本コロムビアで出した音源も全部そうだったということですか? ソウル・メディアはしっかり作ってあると思っていました。ソウル・メディアのアルバムも時間がないなかで録音していたんですか?

稲垣:そうだね。鈴木宏昌=“コルゲン”がアレンジをして、ピアノを入れているものはみんな内容が濃いんけどね。

――コルゲンさんのアレンジとか演奏は特別なものがあったということですか?

稲垣:あったね。(鈴木宏昌+稲垣次郎とビッグ・ソウル・メディア名義での)『By The Red Stream』(1973年)は内容がいいと思うよ。

――それはわりと満足がいってます?

稲垣:いってるね。

『By The Red Stream』

西城秀樹やピンク・レディーのバックバンド、『スイングジャーナル』への寄稿

――『Head Rock』(1970年)や『女友達』(1971年)の頃はロックをやっていたのが、だんだんソウルやファンクの要素が濃くなっていって、『In the Groove』(1973年)や『Funky Stuff』(1975年)のようなアルバムが生まれます。その当時、どんなレコードを参考にしていましたか?

稲垣:いちばん聴いていたのは、アース・ウィンド・アンド・ファイアーかな。『地球最後の日』(『Last Days and Time』)あたり。あとは、クインシー・ジョーンズの関連のものをよく聴いていた。ただのファンクバンドじゃなくて、演奏技術がすごく高くて、ジャズっぽい要素もしっかりあったからね。

――アース・ウィンド・アンド・ファイアーを聴くようになったのは、モーリス・ホワイトがラムゼイ・ルイスをやっていたのも関係あります?

稲垣:そうだね。

――ラムゼイ・ルイスも聴いていましたか?

稲垣:もちろん聴いてましたよ。あと、ジャズ畑から出た人だったらドナルド・バード。

――ドナルド・バードの『The Blackbyrds』とか?

稲垣:うん。当時、西城秀樹のバンドの仕事をやっていたんだけど、彼のバンドはロックやR&Bっぽいものをレパートリーでやっていた。だから、その当時の流行歌的なロックやR&Bは、資料としてどんどん送られてきていたんです。それを聴かなきゃいけないみたいなところもあったね。

――西城秀樹もピンク・レディーも洋楽のヒット曲のカバーみたいなものをしていたんですよね。

稲垣:そう。ツアーのたびにレコードを資料として送られてくるんだけど、そのなかから気に入ったものを聴いていた。スティーヴィー・ワンダーだったり、ダイアナ・ロスだったり。

――ドナルド・バードがファンクを始めた頃、1974年の『スイングジャーナル』には稲垣さんがかなり登場していて、8月号には稲垣さんがジャズファンクを解説する座談会「ファンクミュージックを解明する」があったり、クルセイダーズ『Scratch』のレビューも稲垣さんが書いています。また11月号には当時若手の評論家だった中山康樹がジャズファンクに対して否定的なことを書いた論考が載っているんですが、その次の12月号では稲垣さんが反論の投書をしていました。それって覚えていますか?

稲垣:その頃、僕はアース・ウィンド・アンド・ファイアーとか、ドナルド・バードをジャズの『スイングジャーナル』で扱うなと言ってたんですよ(笑)。それで『アドリブ』という雑誌ができて。その『アドリブ』という雑誌では、ジャズのアルバムを扱わないことにしていたね。覚えていないんだけど、『スイングジャーナル』のなかで僕は反論をしていたの?

――そうですね。

稲垣:あの時期は『スイングジャーナル』とよく喧嘩してたよね。だから、載せてもらえなかった時期もあった。クロスレビューで点数悪いと、文句を言うために電話かけたりとか(笑)。それまでジャズをやっていたハンコックたちがどんどんエレクトリックのほうにいった時に、やっぱり『スイングジャーナル』ではダメで。そこは『アドリブ』と分けなきゃしょうがなかったと思う。

――なるほど。

稲垣:あと、『スイングジャーナル』がずっと人気投票をやっていたんだよ。それで、沢田駿吾がギターで日本で1位になっているというのがおかしいと俺が言ったんだよ。高柳昌行とか沢田駿吾とかね。

――稲垣さんは高柳さんと付き合いがあったんですか?

稲垣:ありますよ。なんか小難しいことをやっている奴だなという意識があったね、昔から。

――当時、フリージャズに関心は持っていましたか?

稲垣:持ってないね。

――たとえば、インパルス・レコーズからジョン・コルトレーン、ファラオ・サンダース、アルバート・アイラーが出ていました。このあたりはロックのリスナーも聴いていたと思うんですけど。

稲垣:聴いてると頭が痛くなっちゃうから。

――佐藤允彦さんもフリージャズやってましたよね。

稲垣:僕と一緒の時はフリージャズ、やってないからね。稲垣次郎クインテットというものを60年代前半の頃に作るんだけど、その時のピアノは山下洋輔。山下洋輔が辞めて、大野雄二が入ってきて、大野雄二が辞めて、佐藤允彦が入ってきた。だから、フリージャズへあとからいっちゃったりとかするような人たちとは一緒にやっていたんだよね。

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