THE SUPER FLYERSのギタリストでも活躍 田中“TAK”拓也、バークリー進学やSKY-HIとの出会いから生まれたオリジナリティ

【連載:個として輝くサポートミュージシャン】田中“TAK”拓也

 ジャズ、ファンク、ロックを横断し、SKY-HIのハウスバンドであるTHE SUPER FLYERSをはじめ、ゴスペラーズ、Little Glee Monsterなどでも幅広くサポートを務めるギタリスト 田中“TAK”拓也。1998年にバークリー音楽大学に進学し、ボストンのジャズファンクシーンの中心地 ウォーリーズ・カフェで日本人初のレギュラーギタリストに抜擢され、SouliveやLettuceのメンバーらとセッションを行い、2003年に移り住んだロサンゼルスではスティーヴィー・ワンダーとの共演も実現。2009年に帰国すると、J-POPのど真ん中でも活躍しつつ、類家心平のバンド RS5pbや、Yasei Collectiveのメンバーも参加していたZA FEEDOでも活動するなど、幅広い世代との交流を続けてきた。

 バークリー出身者をはじめ、ジャズやファンクを背景に持つミュージシャンが国内で幅広く活躍するようになった現代の音楽シーンにおいて、彼はそれを先駆けるような存在であり、世代を繋ぐキーパーソンでもあるはず。10年以上に及んだアメリカでの生活や、「スクワッド編成」と呼ばれるSKY-HIのライブ形態の話などを軸に、その濃密なキャリアをたっぷりと語ってもらった。(金子厚武)

ギターを手にしてからバークリー進学に至る経緯

――まずはギターを始めたきっかけから教えてください。

田中“TAK”拓也(以下、TAK):僕は4人兄弟の末っ子で、8歳年の離れた兄貴がいるんですけど、彼が音楽好きだったこともあって、僕が小学校高学年くらいのときには家にギターがあって。ただ、音楽に最初に興味を持ったのは、うちにあったレーザーディスクで観た坂本龍一さんの『MEDIA BAHN LIVE』がきっかけで、キーボードとかシンセに興味を持ったんです。でもその後に、今度はVan Halenの『Live Without A Net』を観て、「これまで知ってたギターとは違う!」と思ったことが大きかったんですよね。アームを使ったり、パフォーマンス含めてすごくトリッキーで、最初はサウンドとかではない部分に惹かれて、エレキギターに対する興味がグッと高まったんです。

――入口はハードロックだったと。そこからはどんな変遷がありましたか?

TAK:大学デビューあるあるだと思うんですけど、大体みんな大学生になると急にジャズとかお洒落な方に行くんですよね(笑)。そこで自分にとってキーマンだったのがLiving Colourのヴァーノン・リードっていう、ものすごく癖の強いギタリストで。彼はもともとフリージャズドラマーのロナルド・シャノン・ジャクソンのバンド(Shannon Jackson & The Decoding Society)でギターを弾いてて、そこからハードロックバンドでデビューした人で、即興性の高い音楽が好きになったのは彼の影響が大きくて。あとは、日高くん(日高光啓/SKY-HI)とやることにも繋がると思うんですけど、Living Colourの曲にはクイーン・ラティファとかPublic EnemyのチャックDが参加したりもしていて、そこで初めてヒップホップを認識したんです。

――ミクスチャー的な音楽との出会いでもあったわけですね。

TAK:あともうひとつ大きかったのが、大学生の頃にアシッドジャズがめちゃくちゃ流行ったんです。Incognito、Jamiroquai、Brand New Heaviesとか、イギリスのアシッドジャズですね。そこをきっかけにして、ビバップから派生したタイプのジャズにもだんだん興味を持つようになりました。

――当時ライブハウスやクラブで言うと、どんなところに出入りしてましたか?

TAK:当時大好きだったのが、Screaming Headless Torsosのデヴィッド・フュージンスキーっていうギタリストで。後々その人にギターを習いにも行ったんですけど、彼らのコピーバンドみたいなことをやっていて、そのバンドで下北沢CLUB251とかに出たりしてました。クラブの界隈で言うと、MONDO GROSSOとかKYOTO JAZZ MASSIVEとか、沖野(修也)さん周辺の人とかがTHE ROOMで夜中にコアなセッションをやったりしてたと思うんですけど、当時の自分はクラブは怖いと思ってたので(笑)、実際に行ったりはしてなかったですね。

――1998年にバークリーに進学して、どんな勉強をされていたのでしょうか?

TAK:最初は管楽器のアレンジを勉強したくて、ジャズ作編曲科に進んだんです。進学する前に、バークリーを卒業した先生にある程度音楽理論を教わってから行ったので、最初から結構いいクラスには入れたんですけど、でもその分ついていくのがすごく大変で、なおかつもともとは勉強をするつもりだったけど、だんだん演奏する方が楽しくなっちゃったんですよね。それで周りの人にも相談して、最終的にはプロフェッショナルミュージック科っていう、自分でカリキュラムを作れる学科にスイッチしたんです。あと、もともとバークリーに行こうと思った最大の理由が、ミック・グッドリックに和音の理論を教わりたかったからで、彼の授業を受けるには普通は高学年になってからじゃないと無理だったんですけど、自分は運よく1年の一学期から授業を受けることができて。伴奏の基礎的なアイデアはすべてミック・グッドリックに叩き込まれました。

――当時のバークリーには上原ひろみさんも在籍していたそうですね。

TAK:ひろみちゃんは同期です。毎年卒業コンサートがあって、名誉卒業生みたいな人がスピーチをするんですけど、僕らの年はSteely Danの2人が来て、僕はその年の卒業生の選抜バンドに入れてもらって。そのなかに日本人はひろみちゃんと、ドラマーの中村亮と僕だけでした。ひろみちゃんはもう学校のなかでも大スターだったから、僕とは扱いが全然違ったんですけど(笑)。

――ボストンにいらしたときには、中村亮さんとBIGYUKIさんとJP3というバンドで活動をされていたそうですね。

TAK:僕はJP3には途中参加で、特にボストンで何かをやったわけではないんですけど、せっかくだからレコーディングをしようってことで、僕がLAに引っ越す直前に録音をして、幻の日本ツアーを一度だけやりました(笑)。JP3はサンプラーを積極的に使って、あんまりギターを弾かないっていうのも面白くて。

――クラブカルチャーの影響を受けていたわけですか?

TAK:そうですね。アシッドジャズ以降の流れで、人力でドラムンベースをやる人とかが出てきた時期で、僕はもともとキーボードとか機材が好きだったのもあって、映画から取ってきた台詞とか、主に声ネタをサンプラーで出したり、あとは笙とか和楽器を結構入れて、YUKIがそこに面白いコードをつけたり、そういう違うエレメントを面白がってましたね。

スティーヴィー・ワンダーとも共演したLA時代を経て、J-POPシーンへ

――その一方で、名ジャズクラブであるウォーリーズ・カフェのレギュラーギタリストになって、SouliveやLettuceのメンバーとセッションを行っていたそうですね。

TAK:Facebookのプロフィールに「卒業大学:Wally’s Tuesday Funk Night University」って書いてたくらい(笑)、学校ではミック・グッドリック、学外ではウォーリーズ・カフェの存在が大きかったですね。今The Rootsでベースを弾いてるマーク・ケリーと、BIGYUKIも仲良くしてるチャールズ・ヘインズっていうドラマーが中心でやってるThe Squadが毎週火曜日に出演する人気バンドで、彼らが火曜日のレギュラーバンドをやめた後、残ったマークを中心に、僕と、同じくバークリーにいたドラマー 菊地真、サックス奏者のサム・キニンジャーの4人でスタートしたのが最初のレギュラーメンバーでした。みんなプレイヤーとしての自負があるから、自分たちのマナーに則って演奏ができないヤツはステージに上げないっていう、それによって様式が保たれてた部分があったので、最初は怖かったんですよ。でも閉店30分前くらいになると、みんなでセッションをしたりして、演奏の水準はめちゃめちゃ高いんですけど、ウォーリーズらしからぬワイワイ感があったんです。いろんな人種の人が入り乱れて、すごくマルチカルチュラルで、世代が近いプレイヤーたちとジャムセッションを楽しめるいい環境でしたね。

――ボストンからLAに移ったのはどういうきっかけだったのでしょうか?

TAK:やっぱり僕はミックスした音楽が好きで。当時ロバート・グラスパーとかが出てきてたから、ニューヨークも面白そうではあったんですけど、なんとなくそっちじゃないなと思ったんです。そんな中で、LAにいた友達が教会のバンドの仕事を紹介してくれて。ボストンでもゴスペルをやってたんですけど、ちゃんとしたホームチャーチで毎週演奏するのは初めてで、それによって教会カルチャーみたいなものが理解できたし、いろいろ経験できました。

――その一方では著名なミュージシャンとも共演されていて、LA時代にはスティーヴィー・ワンダーとも共演されたとか。

TAK:中村陽平くんっていうスティーヴィー・ワンダーのツアーに参加しているギタリストもいますけど、僕の場合は共演と言っても本当に数回で。LAではファンドレイズっていうお金持ちが寄付金を集めるための催しを定期的にやっていて、そこでの演奏をお手伝いしたり、映画のレセプションでバックバンドをやったりする機会がよくあって、僕たちがサンセット大通りにあるクラブのオープニングセレモニーで演奏をしてたらたまたまスティーヴィーが来て、「1曲弾かせろ」ってなって。どうやらスティーヴィーはそのあたりによく来てたらしく、それをきっかけに数回一緒に演奏させてもらいました。あれもすごくいい思い出ですね。

――アメリカに11年間滞在したのち、2009年に日本に戻ってきたのはJUJUさんのサポートがきっかけだったそうですが、アメリカから戻ってJ-POPのど真ん中で活動するにあたっては、ギャップを感じたりはしましたか?

TAK:当時のJ-POPのバラードは構造が複雑だなと思いました。アメリカでやってた音楽は1ループ主体のものが多くて、自分はジャズのコードの仕組みとかは勉強したものの、ポップスでこんなに忙しく弾くにはどうしたらいいのか、その複雑さには結構面食らいましたね。あと当時アコースティックギターの需要が多くて、シンガーとデュオでやることはアメリカではそんなになかったから、アコギ一本で複雑なコード進行の痺れる曲をやらなきゃいけないっていうのはなかなか大変で、めちゃくちゃ練習しました。でも周りにいたミュージシャンはみんな上手で、演奏してても楽しかったし、そういう意味でのストレスは全くなかったです。

――日本に帰ってきてからすでに10年以上が経過して、日本の音楽シーンの変化も感じていらっしゃると思います。近年はバークリー出身者をはじめ、ジャズやファンクを背景に持つプレイヤーがJ-POPをはじめとしたさまざまなシーンで活躍するようになったと思うのですが、シーンの現状をTAKさんはどんな風に見ていらっしゃいますか?

TAK:昔はバークリーに行って帰ってきた人って、ポップスの現場では評判が悪かったらしいんですよ(笑)。ジャズを中心にやってきて、それをJ-POPにアダプトしようとしても、当時は文脈が全く違ったから、技術や論理は強くても、ポップスっていうスタイルには合わなかったのかなって。でも今はもうバークリー自体が「ジャズの学校」というよりも「総合音楽学校」になってるらしくて、「まず一人一台コンピューターを買うところから」みたいな感じになってるから、そこは大きく違うところで。

――なるほど。

TAK:あとは……これはYouTubeのおかげなのかサブスクのおかげなのかわからないですけど、この5年くらいでポップスのあり方は急にエッジが立ってきてるというか、僕が客観的に聴いても、かつての定型から外れてる演奏家が多くて、今の20代は僕が思うジャンルの垣根みたいなのがもうないと思うんですよね。ジャンル的にどうかじゃなくて、単純にサウンドとしてかっこいいかどうかでしかない。例えば、Suchmosが流行ったときとかって、僕は正直パッと聴いて「こんな時代遅れの音楽でいいの?」って思ったけど、ちゃんと聴くと焼き直しではなく、むしろ進化をしていて、それができる知識と技術を持ったミュージシャンが当たり前のようにいて。なので、若いミュージシャンと話すと「すげえな」って思うことが多いです。

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