鹿野淳、10回目の『VIVA LA ROCK』で届ける集大成 コロナ禍でも途切れなかった“エンターテインメントの架け橋”としての自負

 2023年5月3日〜7日にかけて、『VIVA LA ROCK』が記念すべき10回目の開催を迎える。2014年の初開催から、来場者が1日かけて気持ちよく音楽を満喫できるように、それと同時に埼玉県という場所の魅力も感じられるように、出演アーティストと観客の双方に向けてさまざまな働きかけをしながら、新しい施策を導入してきた。いまやすっかりゴールデンウィークの風物詩としてビバラが定着しているのも、屋内アリーナを最大限に活用した快適なフェスにするべく、ステージ展開や音響、移動導線などを試行錯誤してきた歴史があるからこそ。そして2020年以降はコロナ禍に突入し、ライブの現場に賛否両論が飛び交う中でも、形を変えながら『VIVA LA ROCK』を途切れることなく開催し続け、ライブエンターテインメントの居場所を守り続けてきた。

 さらに今年の『VIVA LA ROCK』は、入場無料の屋外エリア=VIVA LA GARDENが4年ぶりに復活し、2019年以来久しぶりの“完全体”での開催となる。リアルサウンドでは毎年、『VIVA LA ROCK』プロデューサーの鹿野淳を取材してきたが、記念すべき10回目の開催を目前に、鹿野は何を思うのだろうか? ライターの三宅正一をインタビュアーに迎え、今年もたっぷりと語ってもらった。(編集部)

「続けてこなかったら大きな何かが止まってたと思う」

――『VIVA LA ROCK』10周年、本当におめでとうございます。

鹿野淳(以下、鹿野):ありがとう。でも10周年じゃなくて、10回目ね。これは大事なところ。

――あ……失礼しました(笑)。

鹿野:11回目の開催が10周年なので。今回やろうとしてるのは10年目であって、10周年は来年。だから、やろうと思えば2回アニバーサリーができるんだよね(笑)。ただ真面目な話をすると、第1幕のゴールは10回目だと思ってずっと頑張ってきたわけです。だから早くそこに行っちゃいたいわけです。やっぱり続けられなくなることの怖さを、3回目ぐらいからずっと感じているからね。

 例えばコロナ禍が始まった2020年当時、オンラインでフェスをやるにしても何百人というスタッフやアーティストが現場に集まるわけで、経済面でも、クラスター発生という意味でも開催すること自体が馬鹿げていると思われていたわけじゃない? あの緊張感は本当に凄かった。ご飯食べるときもスタッフ同士で会話もしないし、顔すら見合わせないようにして。それでも開催したのは結局止めたくなかったからだよね。だって止まるのが怖いじゃない。2021年もほとんどのフェスは開催しなかったけど、自分は臆病だから「去年に続いて今年もオンライン開催、あるいは有観客開催中止となると、去年オンラインで頑張った甲斐もないし、1回でも止まると、こんなフェス一瞬で吹っ飛んじゃうな」みたいな強迫観念があったんですよね。だから何とか出演者にも参加者にも迷惑をかけずにやれないかなと思っていたら、出演者サイドから「この状況でフェスをやろうとしてくれるだけでもありがたい」みたいなことをわりと多く言っていただいて。フェスを開催することに味方なんて1人もいないんじゃないかと思っていたら、案外違ったんです。その上で、開催しようとするだけでありがたいんだったら、実際に実現できればもっとありがたがっていただけるのでは……みたいな。そうしたらみんなに『VIVA LA ROCK』が好かれるかもしれない、必要とされるかもしれないと思って、ずっと風上に立って開催したんです。で、2022年は通常開催できると踏んでたんだけど、残念ながらそうもいかなくてさ。

――1日2万人限定で開催しました。

鹿野:まあ2万人も遊びに来てくれれば十分なので人数は良かったんですけど、アルコールを販売する/しないとか、本当に直前まで話し合いをしたし。結果、各所のご理解と期待を得て出させてもらったんだけど……っていうことをやっていたら、もう今年になってるじゃないですか。

――2020年のオンライン開催の話を聞くと隔世の感さえ覚えるというか。たった3年前の話なのに。

鹿野:今となっては嘘のような話だよね。いや、嘘のような話にしたいのかな。わからないけど、うちの会社(株式会社FACT)のオフィスから眺める下北沢の街が、あの頃はゾンビ映画のような景色だったからね。最近は日本語が聞こえてこないんじゃないかっていうほど、事務所に昇る階段に足の踏み場がないほど世界の観光地になってるからね。不思議です。

――それだけ目まぐるしい中で、いかに能動的に対策を見つけながらライブエンターテインメントをやってきたのかは、鹿野さんやライブ制作チーム、イベンターチームを含めて、肌で感じたところだと思います。

鹿野:最終的には1年1年、一つひとつやりたいことをクリアしてきたっていう話なんですよね。もちろん100%じゃないんだけど、でも十分なわけです。続けてきたからクリアできたので。2020年にオンラインだけでも開催しなかったら、2021年に有観客でやれたかどうかもわからない、というか、たぶん反対を押し切るのは難しかった。2021年の状況で開催して何事も起こらなくて、行政からも「エンターテインメントを前に進める架け橋になってもらってありがたかった」と言ってもらった信頼があったから、2022年にアルコールを販売することに繋がったわけだし。だから続けてこなかったら結局は大きな何かが止まってたと思うんだよね。

――地続きになれていなかったということですよね。

鹿野:そう。去年の開催が終わった後に、「2023年こそは本来のフェスの形に戻るんだろう」と思っていたんだけど、やっぱり現実はマスクをする/しないの問題がずっとあって。今年の『VIVA LA ROCK』が終わった翌日から(新型コロナウイルスが)5類に移行するはずとか、いろんなことを含めて、まだ警戒されてるゴールデンウィーク中の開催ではあるんだけど、自分たちの中で「1回も止まらないでここまで来た」っていうことを自信にして10回目を迎えられることは本当にめでたいことだし、その気持ちでエネルギッシュに開催したら参加してくれたお客さんもみんな楽しんで遊んでくれるんじゃないかなと。今年はそういう開催ですね。僕は思うんですよ、こういう時代や状況だからこそ、他の物差しに委ねるのではなく、自分らの責任で決断するべきだと。今も「国が」とか「協会が」とか、いろいろな基準があって、それに沿ってどうのこうのという話が出てくるけど、「それだけを根拠にしてどうこうするって話をして、果たして参加者は心から納得したり安心したりするのかな?」「少なくとも自分はそれを言われても逆に大丈夫か、このイベント」って思うし。だから、やるからには責任と覚悟をもって今回もいろいろ決めたし、お伝えしたつもりなんですけどね。

――ビバラはそうですよね。でも開催10回のうち、今年も含めて4回はコロナ禍以降に相当するわけで。

鹿野:約半分。そう考えるとすごい10年間だよね。みんな壮絶な時を生きてるよね。コロナ以外にもいろいろあって、地球の歴史レベルの分岐点でしょ、きっと。それとのさらに大きな闘いが待っていてもおかしくないわけだし。それを起こすのもまた人間の仕業なんだろうし。

――本当にね。10回目なので振り返りますが、ビバラを立ち上げた当初は、3回は続けようという気持ちでいましたよね?

鹿野:はい、赤字でも3回は続けようと思っていたんですよ。最初の年、うちの会社は2億2000万円くらいのリスクを背負ってビバラを開催したんです。4階なのにエレベーターもないようなオフィスを構える会社に、2億2000万のキャッシュフローなんかなかったわけですけど(苦笑)、だからこそ、やるからには絶対に成功させないと会社が終わるわけ。そうすると持っている媒体も共倒れする。結局初回から利益は生まれたんですけど、それは本当に予想外だったし、もともとは3回目で黒字回収するような気持ちで始めたんですよね。

――それはポジティブな想定外ですよね。改めて、それほどのリスクを背負ってまでフェスをやりたかったというのは、1回目のときの鹿野さんはどういうマインドだったんですか?

鹿野:言い方が難しいんだけど、僕の場合は「フェスをやりたい」とは今までもずっと思ってないんです。偉そうな言い方だけど、「フェスを作れる」からやっているんです。ある意味、会社のミッションとして「だったらそれをやって最低限会社を支えろ」という声のもとにやっている感じなんですよね。ただの自慢話になっちゃうんだけど、現実的にフェスができる人ってそんなに多くないでしょ。フェスをフェスとして生み出せる人だって、もっと少ないと思う。でも、たぶん僕はそれができるうちの1人なので、フェスができる場所とタイミングが合ったときにやるっていうのは自然な流れだと思うんです。ただ、ビバラを始めた2014年は完全にフェスが飽和状態になってたから、そこに対してはビビってたけどね。

――いわゆる“春フェス”みたいな言葉もあったんでしたっけ?

鹿野:ビバラの前に手がけていたフェス(『ROCKS TOKYO』)に取り組み始めた2010年頃が、春フェスがニョキニョキと生えてきた時期。2014年に、少なくとも2万人は来場しないとソールドアウトできないフェスを、今からさいたまスーパーアリーナでやって、本当に成り立つほどお客さんが来るのかな? という恐怖はありました。でも、埼玉県って全国で人口が5位なのに、毎年やってるフェスがないのはおかしいなと思って。「それを我々がやっちゃえばいいんだ」と思って死に物狂いでやってましたね。

 あと、2010年代に入ったあたりから、音楽フェスがロックだけの場ではなくなってきたじゃないですか。そもそも『FUJI ROCK FESTIVAL』以降、日本のフェスは“野外であること”と“ロックであること”が軸で。でもそれが2000年代からだんだんグラデーションになってきて、2010年代に入ってからはロックフェスという名前がついていても、ポップスや歌謡曲、アイドルの方々が積極的に出てくるという動きがあった。僕はそれを肯定も否定もしないんだけど、そういう時代になっている中でビバラはあえてロックフェスをしっかりとやろうと思って。“埼玉でやること”と“ロックのフェスであること”っていう2つの点で、必然的に他のフェスの潮流とは差別化ができるなと思って始めました。

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