デフスターレコーズ座談会 レーベル関係者4氏が語り合う、忘れがたい日々【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第3回】

CHEMISTRY、平井 堅、Tommy february6……レーベル立ち上げから続く快進撃

 敬さんは「即断即決の人だった」と大谷氏は振り返る。

 CHEMISTRYのデビューシングル『PIECES OF A DREAM』は、われわれの期待値を遥かに超えて、ロングヒット。そして、デビュータイミング以来2回目の『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)への出演が決まる。

「2回目の『Mステ』のタイミングで追加のTVスポットを打つべきだと敬さんに直訴した。何か言われるのかなと思ったが、すぐ実行に移してくれた。線引きの内容は細かくチェックされたが、それ以外は何も言われなかった」(大谷氏)

 『PIECES OF A DREAM』はロングヒットの末、発売から15週目でミリオンを達成。CHEMISTRYの快進撃は続き、1stアルバム『The Way We Are』 (2001年)はトリプルミリオンを達成した。

 当時、僕らは30代前半だった。そんな僕らに制作と宣伝を自由に任せてくれた敬さんだが、要所要所でのプレッシャーのかけ方もハンパではなかった。しかし、僕らもそれに応える若さとパワーがあったのだと思う。

 僕がそれを強く感じたのは、平井 堅「大きな古時計」(2002年シングル)の時だ。

 藤原氏は語る。

「ブレイクした後の平井 堅は、“ヒットを狙う”勝負シングルと“新しい一面をみせる”挑戦する楽曲を交互にリリースしていた。『大きな古時計』は新たな挑戦のつもりだったが、社内の他セクションの人間からは、疑問の声もあがっていた」

 きっかけは、アルバム『gaining through losing』(2001年)のリリースタイミングのプロモーションでTVの音楽特番への出演を仕込もうという話からだ。切り口が必要だった。

 平井 堅のデビュー当時、札幌のイベントライブで「大きな古時計」を披露したというエピソードから、敬さんに閃くものがあったのか。プレッシャーの矛先は僕に向かう。「NHKで(特番を)仕込め」と言うのだ。

 平井 堅のブレイクのきっかけを作ったTBS深夜バラエティ番組『ワンダフル』のディレクターも巻きこみ、普段からお世話になっていたNHKの音楽番組『ポップジャム』チームに話し、実際に歌のモデルになった古時計が、アメリカ、マサチューセッツ州にあるということがわかる。
 僕は、かつての敬さんのように、本人、スタッフとニューヨークを経由して現地に向かった。

 それが、2001年にNHKで放送された「『平井堅 楽園の彼方に~アメリカ・大きな古時計を探して~』である。

 番組は大反響に終わり、アルバムも2作連続ミリオンを達成した。しかし、敬さんはそれで満足せず、僕に次の課題を与えた。なんと次は「大きな古時計」のタイアップをNHKに行って取ってこいと言う。容赦なかった。
 苦し紛れに『おかあさんといっしょ』に飛び込み営業するも、「うたのおにいさんでもやってくれるんですか?」と言われる始末。

 もがきながら辿り着いたのは『みんなのうた』だった。

 こうして、2002年8月・9月度のNHK『みんなのうた』に選ばれ、大義名分を得た敬さんは、自ら事務所と交渉し、シングルリリースを決める。

 平井 堅『大きな古時計』は、キャリア初のオリコンシングルチャート1位を獲得。さらに、大きな話題を呼ぶことになる。

 敬さんのレーベル運営術。プレッシャーはかけるけど、骨は拾ってくれる。

 だから、僕らは一生懸命になれた。そして、敬さん自身が売るための、売れるためのプラスアルファを自ら動いて獲得してくれた。それが、何よりも僕らには心強かった。

 藤原氏は言う。

「トミー(the brilliant greenのボーカル・川瀬智子のソロプロジェクト、Tommy february6)の時も、状況が整ってきたら、自ら動いてタイアップを取ってきてくれた」

 すでにダイハツのCMで流れていた、フランキー・ヴァリ「君の瞳に恋してる」の80年代風カバーをトミーの音源に差し替えたのだ。

「ダイハツの宣伝部に同級生がいて直接のパイプを持っていた。代理店をとばして直接交渉し差し替えた。敬さんにしかできない芸当」(大堀氏)

「『同じユーロビートだから、できるだろ』と言われて、CMと同じテンポにしてレコーディング。アルバムに追加収録した」 (藤原氏)

 このアルバム『Tommy february6』は、2002年2月6日に発売され約70万枚を出荷。オリコンアルバムチャート1位を獲得した。

 トミーを皮切りに2002年も快進撃は続く。

・Voices of KOREA/JAPAN『Let’s Get Together Now』

 日韓同時開催のFIFAワールドカップのオフィシャルテーマソングになったCHEMISTRY、Soweluを含む日韓合同ユニット。Soweluはデビュー前のユニット参加となり、一気に注目を集める。K-POPが世界進出する前の韓国はまだ日本語詞楽曲のオンエアが禁止の状態だった。そんな中、主要スタッフが韓国の開幕戦に乗り込み、歴史的瞬間に立ち会う。

・キングギドラ『UNSTOPPABLE』
・キングギドラ『F.F.B.』

 伝説のヒップホップグループ、キングギドラ(Kダブシャイン、Zeebra、DJ OASIS)がデフスターで期間限定で再結成。復帰第1弾シングルとして2枚同時リリースしたが、それぞれの収録曲の一部歌詞への抗議が殺到し、両シングルとも販売停止・回収となる。しかし、レーベル内ではひそかに「プロモーションは回収しない」を合言葉に宣伝を続行。回収決定その日の『ミュージックステーション』では、レゲエダンサーをフィーチャーした攻めたパフォーマンスを披露。さらに話題を集めた。

・YeLLOW Generation『北風と太陽』

 YeLLOW Generationは、放送作家おちまさとがプロデュース・作詞する3人組ボーカルユニット。詩を先行して楽曲を制作するスタイルで、デビュー前から地上波テレビの深夜冠番組レギュラーを務めるなど積極的に仕掛け、ブランディングを図っていった。2ndシングルとなる本作は、Whiteberry「夏祭り」(2000年)、ZONE「secret base~君がくれたもの~」(2001年)と続く夏休み期間にオンエアされた昼ドラの主題歌としてスマッシュヒット。日本ゴールドディスク大賞「ニューアーティスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。

・CHEMISTRY『It Takes Two / SOLID DREAM / MOVE ON』(トリプルA面シングル)
・CHEMISTRY『My Gift to You』(10万枚限定シングル)

 翌、2003年1月8日にリリースとなる2ndアルバム『Second to None』につながる先行シングルとして11月13日、12月18日と連続リリースされた。「It Takes Two」はフジテレビ系火曜9時ドラマ『ダブルスコア』(反町隆史・押尾学主演)、「SOLID DREAM」はフジテレビ系『めざましテレビ』テーマソング、「MOVE ON」はダイハツ「ムーヴカスタム」CMソング。敬さんのタイアップ戦術の集大成ともいえるトリプルタイアップシングルとなった。

 「My Gift to You」は、開発されたばかりの「着うたⓇ」機能搭載のau携帯電話に楽曲自体がプリセット。世界初の「着うたⓇ」楽曲としても注目を集め、その年の『NHK紅白歌合戦』にも同曲で2回目の出場を果たした。

 両シングルがアルバム先行シングルとしての役割を充二分に果たせたことで、2ndアルバム『Second to None』へと有機的につながり、出荷枚数は200万枚を突破した。

 怒涛と充実の日々だった2002年が終わった。そして、2003年に突入したが、敬さんのベクトルはすでに次の方向を向いていたことは、僕らはまだ知らなかった。

 ただ、敬さんはその頃から「打ちまくってるのに試合では負けているような敗北感がある」とよく口にするようになっていた。

「『もうこんなとこにいたらダメだ!』っていう、ちょっと芝居がかったメールが敬さんから来たのを憶えている。めったにメールなんか打たない人だからインパクトがあった」(藤原氏)

 そして、敬さんは行動に移す。

「これぐらいの頃から、別なミッションを敬さんから与えられるようになった」(大堀氏)

 レーベル運営ではない、敬さんの別のミッションとは、「独立への道」だった。

「いきなり独立と言われても何の経験もないのでわけがわからず、人づてに辿り着いた某メガバンクのファイナンシャル専門の人のところに相談しに行ったりしたよ」(大堀氏)

「僕も、独立の件は相談されたな。デフスターになるとき、『ソニーの傘下であればどこに行っても上司が変わるだけで、真の独立にはならないですよね』って言ったことを思い出した。その頃はワーナーの“ワ”の字もなかった」(藤原氏)

 また、この頃から、社内も何か歯車が狂い始めていたのかもしれない。

 大谷氏は今後のCHEMISTRYの体制について、敬さんとバチバチやりあっていたし、僕もプロモーション稼働をめぐって、レーベルを代表するアーティストの所属事務所と対立し、プロモーションチーフとして、正しく機能できなくなっていた。

「そしてある日、突然、ワーナーに移るっていう選択肢が敬さんの頭の中にあることを知った。ただ、最初はあくまでもオプションの一つだと思っていた」(大堀氏)

「僕は大反対しました。『他のレコード会社に移っても、それってファンクションが変わるだけなんじゃないですか』と何度も言った。反対しているうちに、だんだん口をきいてくれなくなった」(藤原氏)

 ある日、僕は敬さんにホテルのバーに呼び出された。その頃、デフスターにはある噂があったため、ピリつく思いでそのバーに向かった。敬さんは異動や担当変更の内示を決まってそのバーでするという。

「CHEMISTRYの担当交替の内示も、そのバーで受けたよ」(大堀氏)

 自分自身のせいで、プロモーションが停滞してしまっているアーティストがいることは自覚できていた。僕は覚悟を決めて、敬さんに切り出した。

「異動ですか?」

 敬さんは、ニヤリと笑って僕にこう告げた。

「そうだ。ワーナーに異動だ」

 やはり、敬さんは即断即決の人だった。僕と大堀氏のワーナーへの「異動」が決まった。敬さんに、辞表を預けた。

 仕事も人間関係も順調なのに、その会社を去ることになるとは……「辞めたくないのに辞めなければならない」という人生の選択を初めてすることになった。

 刻一刻と、その時が迫っている。意を決した僕は、乃木坂ビル近くの喫茶店に他の3人を含む主要スタッフを呼び出した。

「敬さんを止めましょう!」

 僕にとって、デフスターは最強のレーベルであり、最高の場所だった。誰かが一言発すれば、時間・場所を問わず集合して、結論が出るまで、お互いの意見を言い合い、アイデアを出し合う。例えば、こだわりの強いアーティストを説得するために、そのアーティストがリスペクトする占星術師を裏でこっそり稼働させるような、そんな突拍子もないけど柔軟な発想をみんなが持っていた。

 しかし、その日の話し合いは、具体的な解決プランには到達しなかった。意見がかみ合わず、何かギクシャクしたまま時間だけが過ぎていった。

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