木下百花が世界に向ける明晰な眼差し 『生きるとは』で繰り広げた“愛”に満ちた世界

 この日、私は2度目の木下百花のライブ体験だったのだが、改めて彼女は“空間”を作る能力に長けているのだと思った。ユーモラスなオープニング映像や、途中で差し込まれた木下の家族まで登場するホームビデオのような映像など、バンドの演奏だけでなく様々な要素で構成された、温かく親密な空間。それは、決して整理された空間ではない。ごちゃごちゃと雑多で、いろんな表情と声があって、でも、だからこそ安心できる、実家のような空間。こうした空間をフラットに創造できるところに、木下の特別さがある。決して慣れ合う気はないが、来るものは拒まず、誰をも疎外はしない。せっかく一緒にいるのなら、一緒に楽しんでしまえばいいーーそんな、木下百花流の“愛”に満ちた世界が、そこには広がっていた。

 伊東真一(G)、岡部晴彦(Ba)、吉澤響(Dr)、そして、マントのようなものを羽織った猫楠透(Per, etc)という、4人のサポートメンバーと共に奏でられた演奏は穏やかだが、力強い。ライブで初めて聴いた「悪い友達」は、音源はスタイリッシュな打ち込みだが、バンドアレンジによって野性的な獰猛さを感じさせたし、アンコールで披露された、この日リリース直前だった「天使になったら」は、音源はチャーミングな80年代風エレクトロポップだが、バンドアレンジよって煌びやかさはそのままに、よりダイナミックに響いていた。

 会場に来ていた木下の母親の微笑ましい声援や、バースデーケーキのサプライズ(本人は完全に分っていたようだが)など、演奏以外の印象的な場面もいろいろあったが、個人的にはオープニング映像がとても興味深かった。スクリーンに映し出されたのはNMB48を脱退しソロデビューした当初の木下を“原始人”になぞらえた物語。それは、言葉のままならない二足歩行を覚えたばかりの原始人=木下百花がギターを手にすることで神の啓示を受け、歌を歌い始める……そんな、自身のシンガーソングライターとしての始まりを使い茶目っ気たっぷりに演出した映像だった。

 自身を“原始人”と称するのは自虐的なジョークなのだろうが、しかしながら、ソロ始動以降の木下にとって音楽が“言語”たり得ていたというのは切実な事実でもあるのだろう。学校で習う言葉や文法のような“与えられた言葉”だけでは自分の“ほんとう”を伝えられないーーときに、そんな実感から歌は生まれる。“新たな言語”として。木下にとって音楽がそういうものだったと考えれば、ここ数年の彼女のシンガーソングライターとしての進化は、原始人が言葉を獲得していくようなものだったと言われても、納得がいくものだ。

 ちなみに、このライブタイトル「生きるとは」は、2018年11月、木下がNMB48脱退からの再始動一発目に開催したイベントと同名である(当時は「百花」名義だった)。この日、木下はNMB48時代から約12年半所属していた事務所を円満退所することも発表した。いま再び「生きるとは」という言葉が掲げられたのは、彼女の中でひとつの季節が巡ったことの証だったのだろう。

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