小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード10 第2次世界大戦 村井邦彦・吉田俊宏 作
第2次世界大戦 #2
翌日の昼下がり、紫郎は1人でモンパルナスのラ・クーポールに向かった。約束の時間より10分ほど早く着いたのだが、待ち合わせの相手はもうテラス席に陣取っていた。おかっぱ頭にロイド眼鏡の男が少女のような仕草で手を振っている。
「フジタ先生、お待たせしました」
「いやいや、やっぱり日本人は律儀でいいなあ。私もつい今しがた来たところなんだ」
藤田嗣治は先の世界大戦が始まる前からパリで活動し、もはや知らぬ者はいないほどの有名な画家になっていた。しばらく日本に帰っていたが、第2回パリ日本美術展のため、再びパリに戻ってきたのである。
紫郎は1939年5月から訪仏している原田弘夫という舞踊家を通じて、藤田との知己を得た。紫郎は国際文化振興会の一員として、原田の案内係兼通訳を請け負ったのだった。
「原田さんの舞踊には毎回、驚かされます。僕はバレエ・リュスも見ているし、それなりに舞踊に詳しいつもりでしたが、あんな妖艶な踊りは全く見たことがない。フランス人も絶賛していますよ」
紫郎が冷えたビールを半分ほど飲んで言った。
「うん、彼は特別だね。能や舞楽、日本舞踊を高いレベルでマスターして、さらにモダンバレエまで習得している。もちろん西洋の物まねではないし、単なる和洋折衷でもない。いろんな流派を学んだうえで、彼ならではの独創的な踊りを生み出しているんだ」
藤田はそう応じて、ビールを2人分追加注文した。
「そこはフジタ先生に通じるところがありますね。先生は西洋絵画に日本画の手法を取り入れ、さらに乳白色という独創的な色使いで誰にもまねできない裸婦像を描かれました」
紫郎の言葉に、ロイド眼鏡の奥がきらりと光った。
「川添君、あなたは大した人物だねえ。聞くところによると、後藤象二郎翁のお孫さんだとか」
「はい。いわゆる庶子ですが」
「お祖父さまは政治でご活躍されたが、あなたは芸術、文化の面で大成しそうだね」
「ありがとうございます。文化の輸出と輸入に関心があります」
プラタナスの落ち葉とタブロイド紙が風に舞い、足もとに飛んできた。「ワルシャワ陥落」の大見出しが躍っている。
「なるほど、文化の輸出入か。それは頼もしいね。君に1つ、面白いことを教えてやろう。原田君のような舞踊家は、海外では高く評価されるだろうが、日本国内でそれほどでもないんじゃないかな。僕の絵を分かってくれる人が日本にはほとんどいないのと同じようにね。日本ではセザンヌやゴッホそっくりに描ける画家の方がありがたがられるのさ」
おかっぱ頭の先生はにやりと笑った。
「そ、そうでしょうか。僕は先生の絵のファンですけどね」
「川添君のように、自分の物差しで芸術を見られる人はほとんどいないんだよ、今の日本には」
「そうだとしたら、物差しを持てるように、国民を啓蒙していくべきですね。そのためにも文化の輸出と輸入は欠かせません」
紫郎が2杯目のビールに口をつけた時、通りがかりの男が足を止めた。
「おお、川添君じゃないか。そちらは藤田嗣治先生ですね。川添君、紹介してくれないか」
満鉄の坂本直道だった。
「は、はい。フジタ先生、こちらは坂本さん。シャンゼリゼにある満鉄の欧州事務所長です。坂本龍馬の甥の…」
「龍馬の甥の長男に当たります。坂本直道と申します」
「藤田です。よろしければ、ここにおかけください。ビールでよろしいですか? さあて、坂本龍馬と後藤象二郎がそろったところで、一緒に船中八策の構想でも練りますか」
画家はロイド眼鏡をはずして黄色のハンカチで拭き、坂本の顔をのぞきこんで「はははは」と大笑いした。
「先生は帰国されないのですか。大使館は盛んに帰国を勧めていますが」
坂本は急速にしぼんでいくビールの泡を見つめながら言った。
「うーん。みんなが『奇妙な戦争』と言っているくらいですからね。大使館が騒ぐほど事態は切迫していないんじゃないですか。フランス軍はマジノ線をがっちり固めているようですしね」
藤田がオリーブの実を口に放り込みながら言った。画家の言う通り、フランスはドイツとの国境線に堅牢な要塞を築いていた。建設を提唱したアンドレ・マジノ陸軍大臣の名を冠して1936年に完成したこの要塞線は、ドイツとの国境に15キロ間隔で配置された108の要塞と、それらを結ぶ連絡通路で構成されていた。
いかに精強なドイツ軍といえども、この難攻不落のマジノ線を越えるのは難しい。フランスでは誰もがそう信じていた。
「マジノ線ですか。確かにあれは堅牢ですが、今のドイツの軍事力は圧倒的ですよ。しかし、ヨーロッパではパリにいるのが最も落ち着きますね。少なくとも今のベルリンやモスクワに住む気にはなれない」
坂本はそう応じて、紫郎の足もとにあったタブロイド紙を拾い上げ、「ワルシャワ陥落」のページだけ抜き取ってポケットに入れた。
「ポール・ヴァレリーがこんなことを話していました。国家が強ければ我々を圧しつぶし、弱ければ我々は滅亡する…と」
紫郎が白髪の紳士の顔を思い出しながら言った。一時はサロンでよく顔を合わせたが、最近はどうしているのだろう。
「国家が強くても滅亡することはあるんじゃない? いくら強くなってもさ、戦う相手がもっと強かったらやっぱり負けちゃうもんね」
画家の何気ない一言に紫郎は戦慄を覚えた。遠くから教会の鐘が聞こえてきた。
ラ・クーポールを出た紫郎はタクシーを拾い、シャンゼリゼ通りの満鉄事務所近くにあるフィルム・エリオス社に戻った。事務仕事はハンガリーから逃れてきたフランシス・ジェルジェリーという若い男に任せていた。彼はドイツ語とフランス語、それに英語もできる。世が世なら、もっと良い仕事はいくらでもあっただろう。掘り出し物の才能だった。彼を雇ったおかげで、社長の紫郎は良い映画を探す仕事に専念できた。
「ボス、ご相談があるのですが」
立ち上がると天井に頭が届きそうになる大男のジェルジェリーが体を折り曲げるようにして言った。
「ノッポ、どうしたんだい?」
紫郎は大男を日本流のあだ名で呼んだ。
「私と同郷の男がパリに逃れてきて、写真家をやっているのですが、ボスの写真を撮らせてほしいと頼まれました。『ヴォーグ』誌の仕事をしているそうです」
「僕の写真を?」
紫郎はキャパを思い出した。そういえば、あいつもハンガリー出身だ。風の噂では「ライフ」誌の仕事を得て、近々ニューヨークに飛ぶらしい。いや、もう行ってしまったかもしれない。あんなに仲が良かったのに、ずいぶん疎遠になってしまった。
「へえ、面白いね。構わないよ」
「おーい、ボスはOKだそうだ」
ノッポがドアの向こうに声をかけた。
「なんだ、もう来ているのかい?」
彼に連れられてきたハンガリー人は「フランシス・ハール」と名乗った。背は紫郎より少し高いくらいで、ヨーロッパ人にしては低い方だろう。広い額、大きな目、通った鼻筋。何かの映画に出ていた俳優に似ていると紫郎は思った。
と、そこに背広姿の男が息を切らしながら事務所に飛び込んできた。
「か、川添君、いきなり申し訳ない」
「鮫島さん、どうしたんです」
「この方は?」
鮫島は見慣れぬ白人に警戒感をあらわにした。
「たった今、会ったばかりなんですよ。写真家のフランシス・ハールさん。ノッポの同郷の友人ですからご心配なく」
「するとハンガリーの方ですか?」
「は、はい。そうです。初めまして、ハールと申します。ごめんなさい、まだフランス語はうまく話せません」
「鮫島です。突然、お騒がせして申し訳ありません」
「ところで、どうしたんです? 沈着冷静な鮫島さんらしくもない。ノッポ、悪いけどコーヒーを頼むよ」
「ウィ・ムッシュー」
「どうやらフランスの官憲にスパイだと疑われているようなんだ。尾けられていたが、まいてきた」
鮫島がゴロワーズに火をつけ、すぐに消した。
「スパイ?」
紫郎が声を上げると、ノッポがちらりとこちらを見た。まだフランス語がおぼつかないというハールにも意味は十分に通じているようだった。
「私はドイツ野郎を追っていた。それは知っているね? そいつはポーランド侵攻が始まる前に帰国したようなのだが、フランスの官憲は私がドイツに通じていると疑っているんだ」
「確かに日本政府は中立の立場を表明しましたけど、日本の民間人がドイツ人と関係があっても不思議はないでしょう」
ノッポがミルでコーヒー豆を挽き始めた。いつもの倍ぐらいの音量でガリガリとやっている。あまり大きな声で話すと外に聞こえますよ、と言いたいのだろう。彼らしい配慮だ。鮫島もそれに気づいて、紫郎の顔を見た。「あいつ、なかなかやるな」と言いたいのだろう。
「ドイツとの関係だけじゃない。私が日本政府のために隠密行動をとっていると勘繰られているようだ。フランスはインドシナ半島にたくさん植民地を持っているだろう? 日本軍は広東と海南島を落とし、インドシナ半島に迫りつつある。そのあたりをかなり気にしているようだ。ああ、いい香りだなあ。ノッポ、それはどこのコーヒーだい?」
「エチオピアです。モンパルナスのロースターに焙煎してもらいました。モカは浅煎りにすると果実味が引き立ちます」
ノッポが落ち着いた声で応えた。
「最近、パリの街を歩いていても反日感情が高まっているのを肌で感じますね。タクシーの乗車拒否が多くなったし、先日うちの妻が肉屋に行ったら販売を拒否されたと怒って…」
紫郎がそこまで言ったところで、ノッポが血相を変えて鮫島に顔を寄せた。
「ムッシュー・サメジマ、向こうの書庫に隠れてください。白人の男が2人、こちらをうかがっています。恐らくあなたを追っていた連中です。ハール、急いで撮影の準備を始めてくれ。よろしいですか、ボス? あなたは『ヴォーグ』誌の取材を受けているということにしましょう。コーヒーを淹れるのは2杯だけにしておきます」
「わ、分かった」
鮫島はノッポの機転に舌を巻いた。
「鮫島さん、本棚の左端にアラビアンナイトの英語版があります。本を抜き取ると、奥にボタンが現れる。後はスパイ小説と同じことが起こります」
「なるほど、隠し扉か。開けゴマってわけだな。川添君、君も抜かりがないねえ」
鮫島がにやりと笑って書庫に消えてから30秒もしないうちに、事務所のドアが激しくノックされた。
「失礼、ここに日本人が来なかったか」
ノッポが扉を開けるなり、残りわずかな頭髪を油で固めた赤ら顔の白人が中をのぞき込んだ。
「どちらさまでしょうか」
ノッポが腰をかがめ、わざと相手を見下すような姿勢で訊いた。
「警察だ」
天井を見上げるような格好で赤ら顔が叫んだ。
「はいはい、私、日本人ですが、何かご用ですか? 今、この方の取材を受けておりましてね。撮影もあるんですよ。手短にお願いします」
紫郎がソファーに腰かけたまま、わざとフランス語に節をつけ、都都逸をうなるような調子で言った。
「おまえじゃない。日本人の男が入ってきただろう。あいつが逃げ込むならここしかない」
もう1人の痩せた白人が男声合唱団のバスのような低音で言った。
「逃げ込む? 誰かを追ってこられたのですか。それはご苦労さまです。あいにく日本人は私だけです」
紫郎は立ち上がり、痩せた男の鼻先に顔を近づけて言った。
「調べさせてもらうぞ」
痩せた男が紫郎の胸を突き飛ばし、書庫の方に向かっていった。赤ら顔が続いた。数分後、何の収穫もないまま書庫から出てきた2人は、さんざん悪態をつきながら去っていった。
「あのう、こんな騒ぎの後で申し訳ありませんが、これから撮影してもよろしいでしょうか」
ハールは改めて準備を始めた。
「僕はこのままの格好でいいのかな?」
紫郎がまんざらでもなさそうな顔で言った。
「もちろんです。あなたの知性的な雰囲気を撮りたいのです」
ハールがレフ板を広げながら応えた。
「いやあ、参った、参った。川添君、悪かったね。君に迷惑をかけてしまった」
鮫島が髪にへばりついた蜘蛛の巣を払いながら出てきた。
「あの隠し部屋はしばらく使っていませんでしたからね。ネズミはいませんでしたか」
紫郎が言った。
「ああ、お陰さまで。しかし、妙だな。ここに入る姿を見られたはずはないんだ」
鮫島は上着を脱ぎ、ネクタイもほどいて応接用のソファーに腰を下ろした。
「フィルム・エリオスもマークされていたという意味ですか?」
紫郎は鮫島の向かいに座り、彼に顔を寄せた。
「そう考えるのが妥当だな」
鮫島はハンカチで顔の汗をふいた。
と、その瞬間、音を立ててドアが開いた。
「そこまでだ。みんな大人しくしていろ」
さっきの痩せた男が1人で風のように入ってきた。
鮫島はソファーの後ろに飛び退いて身構えたが、紫郎をはじめハールもノッポもあっけにとられて動けなかった。
「か、鍵は閉めたはずですが」
ノッポが言い訳のように言った。
「こんな錠前なら5秒で開く。それよりサメジマ、こんなところに逃げ込んだらムッシュー・カワゾエを巻き込むことになるじゃないか」
痩せた男の低音が響いた。
「い、言っている意味が分からんが」
鮫島が珍しくうろたえた。
「まだ分からんのか。ムッシュー・サカモトが見込んだ男と聞いて一目置いていたんだが、全く期待はずれだな。その灰皿に残っているゴロワーズの吸い殻で、確かにおまえが来たと分かった。あの別室のわざとらしい隠し扉だって、プロには一目で分かる」
痩せた男が鮫島に近寄り、彼の顔に人差し指を向けて鋭く言った。
「つまり、あんたは我々の味方だという意味か? 坂本所長に頼まれたのか?」
鮫島がその指を払いのけて言った。
「これ以上、説明する必要はなかろう」
痩せた男はコートを脱ぎ、紫郎の隣に腰かけた。
「さっき一緒に来た男…、私の相棒は最近配属されたばかりなんだが、どうやらあいつもスパイだな。確率は90%。しかしスパイにしては並以下だ。ゴロワーズにも隠し扉にも気づかなかった。もっとも、おれと同じように気づかないふりをしていただけかもしれんがな」
「スパイってどこのスパイなんです?」
紫郎が身を乗り出した。
「恐らくソビエトだろう」
「そ、ソ連のスパイ? ソ連が満鉄を警戒しているってことですか?」
「そんな単純な論理で動いているわけではないが、まあ、それも当然あるだろうな」
ノッポが痩せた男と鮫島にコーヒーを出した。
「ありがとう、ムッシュー・ジェルジェリー」
痩せた男が即座に礼を言った。
「わ、私をご存じなのですか」
ノッポが眉根を寄せて言った。
「もちろん。ああ、上等なモカだ。焙煎もちょうどいい」
男はカップに口をつけ、うまそうにコーヒーをすすった。
「あ、あの、いったい、あなたは?」
紫郎の声は途中でかすれ、声にならなかった。
「サメジマが言った通りさ。それ以上、知る必要もないし、知らない方が身のためだ。それからムッシュー・カワゾエ、あなた自身もマークされている。用心した方がいい。いや、そろそろ新婚の奥さんと一緒に帰国した方がいい」
「僕がマークされている? いったい、どんな勢力が僕なんかを?」
「ノーコメント。とにかく収容所から脱走してきたマックス・マイヤーのような男と親しくしているのが見つかったら、大変なことになる」
男の声がさらに低くなった。
「マックス・マイヤーって、マイク…、マイケル・スミスのことですか? あなたはシェヘラザードに来ていたのですか」
紫郎は自分の声が裏返っているのが分かった。
「それもノーコメントだ。サメジマ、あんたもパリを離れた方がいい。自分のためでもあるが、ムッシュー・サカモトのためでもある」
「ふん。どうやらその通りのようだな」
鮫島はコーヒーカップをテーブルに戻して上着を羽織り、よれたネクタイをつかんだ。
「川添君、迷惑をかけたね。やつの言う通り、私は消えることにするよ。故郷に帰って、捲土重来を期す」
「えっ、パリを出るということですか。故郷って、どこでしたっけ?」
鮫島は答えずに出ていった。
「お邪魔しました。ムッシュー・カワゾエ、身辺にはくれぐれも気をつけて」
痩せた男も腰を上げた。また鮫島を尾行するのだろうか。
「サメジマの行き先はだいたい察しがついている」
紫郎の考えを見透かしたように、男が言った。
「どこです?」
紫郎が身を乗り出した。
「満州さ。天涯孤独の彼にとって、満州は故郷のようなものだろう」
「あなたは本当に何でもご存じなんですね。お、お名前は?」
「私に名前を尋ねるとは、ずいぶん滑稽な。バスと呼ばれることもあるが、こうしてテノールの声も出せるんだ。むしろ、こっちが地声かな。いや、もう自分の本当の声なんて忘れてしまった」
バスは少し寂しそうな顔を見せて出ていった。
フランシス・ハールは紫郎を撮った後、たまたま事務所を訪れた智恵子のポートレートも撮影し、川添夫妻とすっかり仲良くなった。
数日後、ハールが再びフィルム・エリオスを訪ねてきた。
「シロー、先日はありがとう」
同世代らしい気安さでハールは言った。
「とんだスパイ映画に付き合わせてしまったけどね」
紫郎が笑った。
「あのさ、君はどう思うか分からないけど…。ああ、これはよくよく考えてのことなんだよ。でも話したらシローは驚くかな。いや怒るかもしれないな。あのねえ…」
ノッポの淹れるマンデリンの香りが事務所を満たしている。ハールはなかなか本題を切り出せない。
「どうしたんだい、ハール。僕らは友達じゃないか。遠慮するなよ」
「実は、実はね。フランス軍に志願しようと思っているんだ。よくよく考えてのことさ」
「な、なんだって? 故国のハンガリーは無事なんだろう?」
「ナチスに加担している…。まあ、そんな場面があっても、それはドイツの圧力に屈してのことさ。きっと本心じゃない。ポーランドは大変なことになっているしね。僕1人が加わったところでどうにもならないのは分かっている。しかし、居ても立っても居られないんだよ」
ハールはテーブルを拳でゴツゴツとたたいた。
「それで、志願の手続きに行ってきたんだ」
「えっ? やることが早いね、ハールは。それで?」
「身分証明書の期限がちょうど切れてしまってね。ぷっつりと。これじゃあダメだと言われてさ」
ハールはマンデリンをすすって「ああ、おいしい」とつぶやいた。
「マンデリンは深煎りに限ります。しかし、この最高の焙煎をしてくれたモンパルナスの店は閉まってしまいました。店主はアメリカ人でしたが、3日前に帰国したそうです。このマンデリンが最後になりました」
ノッポが寂しげに言った。
紫郎はしばらく黙ってマンデリンを飲んでいたが、
「ねえ、ハール。もし君さえよければ、日本に来ないか。僕ら夫婦は12月にマルセイユを発つつもりだ。君も奥さんを連れて日本で活動すればいい」
と切り出した。
「そ、そんなことができるの?」
「先日、君の撮った写真をたくさん見せてもらっただろう? ハールは素晴らしい才能の持ち主だと確信したよ。ロバート・キャパにだって負けていない。きっと日本では高く評価されるはずだ。そうだ、国際文化振興会に掛け合ってみよう。振興会の招待という大義名分ができれば、すんなりと日本に入国できるはずだ」