小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード10 第2次世界大戦 村井邦彦・吉田俊宏 作

 村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード10では、第2次世界大戦の幕開けとなった1939年、パリに残った川添紫郎(浩史)とその妻である智恵子の日々を描く。ドイツとソ連のポーランド侵攻に対して、人々がどんな心情を抱いていたのかを改めて考えることは、ロシアのウクライナ侵攻が深刻さを増している現在の状況を見つめる手がかりになるかもしれない。(編集部)

※メイン写真:ロシア軍の攻撃から逃れる車の大渋滞。(2022年2月24日、ウクライナの首都キエフ/Getty Images)

【エピソード9までのあらすじ】

 川添紫郎は1934年、21歳でパリに渡り、モンパルナスのカフェを拠点に交遊関係を広げていった。長年の相棒となる井上清一をはじめ、建築家の坂倉準三や美術家の岡本太郎といった日本人留学生だけでなく、故郷を追われてパリに来たロバート・キャパやゲルダ・タローのような外国人とも親交を結んだ。

 折しも隣国ドイツでヒトラーが政権を握り、歴史が大きく動き始めていた。時代の荒波は留学生たちにも容赦なく襲いかかり、紫郎が想いを寄せていた林田富士子と、キャパの恋人ゲルダが、報道カメラマンとして赴いたスペイン内戦の戦地で相次ぎ若い命を散らした。

 そんな中で紫郎はパリで知り合ったピアニストの原智恵子と結婚し、映画の輸出入の仕事に取り掛かるなど、国際文化交流プロデューサーへの道を歩み始める。坂倉はパリ万国博覧会で建築部門のグランプリを受賞し、紫郎もヴェネチア国際映画祭に参加するなど、モンパルナスの仲間たちは徐々に才能を開花させていたが、ナチス・ドイツの怒涛のような侵攻によって、ついに第2次世界大戦が始まってしまった。

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第2次世界大戦 #1

 ナチス・ドイツは1939年9月1日、ポーランドに侵攻した。ソ連と不可侵条約を結んでから、わずか1週間の早業だった。フランスと英国がドイツに宣戦布告し、ついに第2次世界大戦の火ぶたが切って落とされた。
 ドイツと国境を接するフランスは臨戦態勢に入り、パリの大きな劇場は相次ぎ公演中止を発表した。日本政府は「欧州戦争に介入しない」と表明したが、在欧邦人には速やかな帰国を勧告した。パリにいる日本人の半数近くが帰国を急ぐ中で、ヴェネチア国際映画祭から戻ったばかりの紫郎は妻の智恵子と共に残留を決めていた。
「パリに残ったのは正解だったようだね。フランスも英国も宣戦布告は早かったけれど、ドイツに対して攻撃を仕掛けそうにないし、ドイツも手を全く出してこない。ポーランドに主力部隊をつぎ込んでいるから、英仏を相手にする余力がないんだろうな。むしろ、ヒトラーをたたくなら今がチャンスかもしれないのに、どの国も怯えて手を出せないんだ。まあ、そのおかげでパリは今のところ平和が保たれているわけだけど」
 9月最後の金曜の夕方、紫郎はモンマルトルに向かうクリシー通りを歩きながら言った。左に智恵子、右には諏訪根自子がいる。根自子が胸に抱えているのはバイオリンのケースのようだ。サントトリニテ教会の鐘の音が後ろから聞こえてきた。
「みんな『奇妙な戦争だ』って言っているわよ。爆撃機や戦車がやってこないのはありがたいけど、ポーランドの人たちは気の毒ね。ドイツに続いてソ連にまで侵攻されているのに、誰も助けに行かないんだから。見捨てられたと思っているんじゃないかしら。ああ、あそこね。シェヘラザード」
 カジノ・ド・パリを過ぎて左に折れ、リエージュ通りに入ったところで、智恵子がきらびやかな電飾のある店を指さした。
「ネジコちゃんは来たことがあるんだよね?」
 紫郎が根自子の肩に手をかけて訊いた。
「ええ、サカさんが一度連れてきてくれました」
 すでに坂倉準三は1939年3月に帰国し、文化学院院長西村伊作の次女百合と結婚している。
「サカさんったら、ユリさんというお相手がいるのに、ネジコにも色目を使っていたのよね。ネジ、大丈夫だった?」
「うふふ。サカさんは紳士でしたよ。シローさんと同じぐらい」
「あら。じゃあ、ダメってことね。男って、いやあね」
「うふふ」
 急転直下、旗色が悪くなったと悟った紫郎は2人の話には応えず、店の入口に立っている背の高い初老の白人に声をかけた。
「こんばんは、大佐殿」
 紫郎に「大佐殿」と呼ばれた男は、時代がかった軍服に身を包み、白髪まじりのカイゼル髭を生やしている。
「おお、ムッシュー・カワゾエ。ようこそ、いらっしゃいました。今夜は美人を2人もお連れで…。何ともうらやましい。さあ、急いで。そろそろジャンゴの演奏が始まります」
 カイゼル髭に促され、紫郎たちは店内に入った。
「ねえ、シロー。大佐殿って、あのドアマンは本物の軍人なの?」
「ははは。7割ぐらいの確率で本物かな。帝政ロシア時代の陸軍大佐らしいよ。大佐いわく、少将に昇進する日にロシア革命が起きた。それでパリに逃れてきて、そのまま居ついたそうだ。このシェヘラザードはロシア系の店ってことになっているけど、今のソ連関係者はきっと1人もいないね。大佐のようにロシアから逃れてきた人、東欧やバルカン半島のユダヤ人、ロマ(ジプシー)の人たち、アメリカ人、スイス人……、いろんな立場の人が身を寄せ合っているんだ」
 紫郎は内扉を開け、2人の背中を押した。
「わあ、すごい。モンマルトルのキャバレーはどこもユニークだけど、ここの内装はとりわけエキゾチックね」
 智恵子が歓声を上げた。
「シェヘラザードといえば千夜一夜物語ですものね。そういえばリムスキー=コルサコフにも『シェヘラザード』という曲がありました」
 そうつぶやきながら、根自子も絢爛たる内装に見入っている。
「ネジコちゃんの言う通り、まさにアラビアンナイトの世界だね。僕はバレエ・リュスの舞台でバレエ版の『シェヘラザード』を見たことがあるけど、あの舞台美術を思い出すよ」
 3人は魔法の森に生える巨木のような、奇妙な装飾を施した太い柱の下の丸テーブルに座って、シャンパンを頼んだ。

バレエ「シェヘラザード」(リムスキー=コルサコフ作曲、バレエ・リュス)の舞台美術のためのスケッチ(レオン・バクスト作、1910年)

「やあ、シローじゃないか」
 隣のテーブルでカルバドスを飲んでいた白人の中年の紳士が、少々訛ったフランス語で声をかけてきた。
「久しぶりだね、マイク。紹介しよう。妻の智恵子、それに親友の根自子さんだ」
「マイケル・スミスです。いやあ、2人ともお美しい。お目にかかれて光栄です」
 スミスが立ち上がって挨拶した。仕立ての良い背広だが、少々くたびれている。
「はじめまして、根自子と申します」
「智恵子です。スミスさんはアメリカの方ですか? それとも英国かしら?」
 智恵子の問いかけにスミスは肩をすくめ、紫郎に助けを求めた。
「さっき、この店には故郷を追われてきた外国人がたくさんいると言ったよね。この僕だってその1人といえるだろう? マイクにもいろいろあってね」
 紫郎は声をひそめて日本語で手早く説明した。彼は収容所から脱走してきたドイツ人であること、マイケル・スミスは偽名で本名は紫郎にも知らされていないこと、彼は友人のユダヤ人をかくまってナチスに捕まり、何度か拷問を受けたこと…。
「そんな方がここにいても大丈夫なんですか」
 紫郎が語るスミスの過去に耳を傾け、今に泣き出しそうな顔をしていた根自子が言った。
「この店はパリで一番安全だとマイクは言っているけど、さあ、どうかな」
と紫郎が応えると、智恵子が
「スパイが潜入しているかもしれないわ」
と妙に自信ありげに言った。
「あまり気にしないでください。私は大丈夫です。似たような境遇の連中ばかりなんですよ、この店は」
 日本語の会話の内容を察したらしいスミスが笑みを浮かべながら言った。
 紫郎は店内を見渡しながら、かつてマルセイユに向かう船で繰り返し読み、ほとんど暗唱してしまった永井荷風の「ふらんす物語」の一節を思い出した。そういえば、あの本は船で富士子に貸したままになってしまった。
「高き円天井を色硝子にて張りたり。左右より上るべき厳めしき階段ありて、その上の突出でたる処に幾十人の音楽師並びて楽を奏す」(※)
 紫郎やスミスたちの目の前に「幾十人」ではなく、5人の音楽家が現れた。ギターが3人、ベースが1人、クラリネットが1人という編成で「フランス・ホット・クラブ五重奏団」と名乗り、無造作に演奏を始めた。陽気なスイングのリズムに乗って、ギターとクラリネットがエキゾチックなメロディーを奏でると、店内の温度が一気に上がった。
「あら、ステファン・グラッペリがいないわ。サカさんと一緒に来た時、あの素晴らしいバイオリンにすっかり参ってしまって…。グラッペリさん、どうしたのかしら」
 根自子が溜め息をついた。
「やあ、ジャンゴ。相棒はどうしたんだい?」
 1曲目が終わった時、スミスが訊いた。彼はリーダーとずいぶん親しいようだ。
「おお、マイクじゃねえか。ちょっと久しぶりだな。あのな、ロンドンに2つ忘れ物をしてきたんだ。1つは買いだめしていたゴロワーズ。8カートンも残っていたんだぜ。惜しいことをした。もう1つは何だっけな。ああ、そうだ、ステファンだ。ははは」
「こちらの美人がステファンのバイオリンを楽しみにされていたそうだ」
「おお、確かにとんでもねえ美人だな。しかも、その足元の箱に入っているのはバイオリンだな。お嬢ちゃん、バイオリンが弾けるのかい?」
「え、ええ」
 ジャンゴ・ラインハルトの唐突な質問に、根自子はうなずいた。
「よし、お嬢ちゃん、一緒にやろうや」
「えっ?」
「こっち、こっち。楽器を持って。さあさあ、早く」
 根自子が意を決してケースを開け、その場で素早く調律してジャンゴの隣に立つと、客席から大歓声が巻き起こった。
「お嬢ちゃん、何をやろうか」
「では『ストンピング・アット・デッカ』をお願いします。私、グラッペリさんの演奏を聴きました。今でも覚えています。思い出しながら弾いてみます」
「そいつはいいや。よし、始めよう」
 根自子が軽やかにスイングしながらグラッペリばりのバイオリンを奏でると、客は一斉にどよめき、次第に静まり返って耳を傾け、やがて立ち上がって踊り始めた。
「こいつは驚いた。お嬢ちゃん、あんた、何者だ?」
 天下のジャンゴ・ラインハルトが諏訪根自子の腕に舌を巻いている。
「ジャンゴさん、彼女はいつかオイストラフを超える逸材です」
 紫郎が叫んだ。
「なるほど、エリート教育を受けたお嬢さまだったか。しかし、今のはステファンの物まねだな。お嬢さん、あんたの素顔を見せてくれよ。裸のあんたを見たいな。えへへへ」
「分かりました」
 根自子がジャンゴの目を真っすぐに見て応え、独りで弾き始めた。ブラームスの「ハンガリー舞曲」だ。ジャンゴたちの顔色がパッと明るくなり、根自子を見る目がさらに変わった。この曲はハンガリーの伝統的なロマ音楽に基づいて、ブラームスが編曲した舞曲の1つだ。ジャンゴはロマの伝統を受け継いだ「ジプシー・スイング」で知られている。
 根自子はジャンゴに敬意を表して、とっさにこの曲を演奏したのだ。素晴らしい機転だと紫郎は思った。
「ネジ、やるじゃないの!」
 智恵子も叫んだ。小柄な白人の男が、涙を流しながら根自子の近くに立ち、盛んに手拍子をしている。スミスが「彼は生粋のハンガリー人だ」と教えてくれた。
「お嬢さん、ありがとう。いやあ、参った。泣けてくるじゃねえか。あんたのことは忘れねえよ」
 演奏を終えた根自子にジャンゴが手を伸ばして握手を求めた。
「おい、みんな、だまされるな。あの女、日本人だぞ。忘れちゃいけないぞ、日本はナチスと組んでいるんだからな」
 訛りの強いフランス語で誰かが叫んだ。
「そうだ、そうだ。ファシストだ」
 騒いでいるのはほんの数人だが、声は大きい。不穏な空気が次第に膨らんでいった。スミスが険しい顔をして、声の主を目で追っている。
「ジャンゴさん、そこのピアノをお借りできるかしら」
 智恵子が立ち上がり、戸惑っているジャンゴに声をかけた。
「ああ、構わんよ。お嬢さん、あんたはピアノを弾くのかい?」
「ええ、少しはね」
 智恵子が演奏を始めると、また店内が静まり返った。
「シローさん、ショパンの『ポロネーズ』ですね」
 根自子が紫郎の耳元でささやいた。
「ああ、彼女はショパンが大好きなんだよ。ポロネーズはポーランド人の魂だって言っていたな」
 紫郎は騒然とする店内で果敢にピアノに向かった妻を頼もしく見守った。
「ブラボー! ああ、故郷を思い出して、涙が止まらないよ。ありがとう、日本の方」
 ポーランド出身らしき痩せた男が、演奏を終えた智恵子に近寄ってハグをした。泣いているのはその男だけではなかった。故国を追われてパリに逃れてきた多くの男女が、智恵子の決然としたポロネーズに胸を打たれ、目を赤くしていた。スミスもハンカチで涙をぬぐっている。ポーランドは今まさに、ヒトラーとスターリンに蹂躙されているのだ。
「観客は狂せんとす。ブラボオの呼び声、椅子テエブルを叩く響、家を崩さんばかりなり」(※)
 紫郎はまた「ふらんす物語」の一節を思い出した。
「みんな、ありがとう! 聴いたかい、このお嬢さんたちの演奏を」
 ジャンゴが声を張り上げると、踊っていた客もその場で立ち止まり、彼の言葉に耳を傾けた。
「日本という国が中国で何をしているのか、おれはよく知らねえ。しかしなあ、おれたちの魂は、このお嬢さんたちの『ハンガリー舞曲』と『ポロネーズ』に大きく揺さぶられた。なあ、みんな、そうだろう? 彼女たちは日本人だ。だから悪人だとでも言うのかい? 馬鹿げた話だ。そんな論理はあいつはユダヤ人だからとか、ロマだからといって迫害するナチスの野郎どもと全く同じじゃねえか。おれは真っ平ごめんだぜ」
「ブラボー、ジャンゴ!」
 紫郎が叫んだ。
「ジャンゴ、ジャンゴ!」
 彼の声に大勢の客が呼応し、シェヘラザードの広い店内にジャンゴ・コールの嵐が吹き荒れた。「あの女は日本人だ」と扇動した連中はいつの間にかいなくなっていた。

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