鳥山雄司と神保彰、PYRAMIDの変化に対する活動指針 クラウドファンディングでのアルバム制作を語る

鳥山雄司&神保彰、PYRAMIDの活動指針

 ギタリストとしてのみならず、作/編曲、プロデューサーとして『世界遺産』(TBS系)のテーマを手がけるなど、さまざまな垣根を越えて日本の音楽界を支えてきた鳥山雄司。CASIOPEAのドラマーとしてその繊細なテクニックで世界を魅了するとともに、ワンマンオーケストラという独自のスタイルを確立するなどイノベーターであり続ける神保彰。THE SQUARE(現T-SQUARE)のキーボード、作/編曲者として30枚以上のアルバムに携わり、「OMENS OF LOVE」、「宝島」などの名曲を送り出した和泉宏隆。そんな3人が、ふと、バンド仲間だった高校時代にタイムスリップした瞬間があった。あの頃と同じ音楽への純粋な憧れと情熱を互いの目に見た3人はPYRAMIDを結成。これまで4枚のアルバムを発表している。しかし、次の準備に入った昨年、ひとかどならぬ意欲を見せていた和泉が急逝。継続を決めた鳥山と神保は、和泉と共に綿密にプランしてきたクラウドファンディングでのアルバム制作に現在邁進中だ。その拠点である517スタジオ(鳥山のプライベートスタジオ)を訪ね、PYRAMIDの原点、今回のプロジェクトの構想、新作で目指すサウンドなどについて、ふたりに心ゆくまで語ってもらった。(藤井美保)

鳥山雄司、神保彰が明かすPYRAMIDの原点

ーー高校時代のバンド仲間3人で2003年に結成したPYRAMID。おふたりにとってどんな存在ですか? 結成の経緯なども含めて聞かせてください。

鳥山雄司(以下鳥山):きっかけは年一で行われている大学OBの集まりでした。加山雄三さんとかダークダックスとか中村雅俊さんとか錚々たる方たちも出演されてきた大きなイベントで、0~9の卒業年度で幹事が回ってくるんです。僕の年代が当番だった2003年は、僕も携わったコンピレーションアルバム『image』シリーズがたまたまヒットしていたこともあって、「何かやってくれない?」という圧がかかりました(笑)。せっかくの機会なので、僕から「アマチュア時代バンド仲間だった神保くんや和泉くんと何かやるのはどうでしょう?」と提案したんです。結局、神保くんはスケジュール的に参加できなかったんですけど、プロになって初の本格共演となったそのライブで、和泉くんと僕はすごく手応えを感じた。「これは何かやったほうがいいよね」とうなずき合って、すぐに神保くんを呼び出しました。

神保彰(以下神保):たしか用賀のカフェでしたね(笑)。

鳥山:そう! 3人でいろいろ話してたら、神保くんが突然「じゃあ、PIT INN(六本木)に電話するわ」と言い出して。

神保:電話しましたね(笑)。日曜日の昼の部だったら空いてるということだったので、その場で日程も決めて、「じゃ、何やる?」という話になったと思います。

鳥山:ほどなくして、神保くんからここ(517スタジオ)にバーッと譜面のFAXが送られてきた。すごいなこの人! って思いました(笑)。その最初のライブでは、ジョージ・ベンソンの「Affirmation」とかラムゼイ・ルイスの「Sun Goddess」、リー・リトナー&ジェントル・ソウツの「キャプテン・カリブ」などのカバーもやったんですね。リハーサルを始めたら、3人ともいきなり、大学のライト・ミュージックソサイェティに出入りしていた高校時代の感覚に戻っちゃった。CTIとかA&Mといったレーベルに純粋に憧れてた時代にね。

ーーなんだか青春ドラマを観てるみたいです。

神保:出会ったのが10代で、「再会」が40代半ば。それもこれも、フィールドは若干違えど、3人が3人とも音楽の前線で活動を続けていられたからこそで、思えば奇跡的なことですよね。なかでも鳥山くんは、ポップスの世界でプロデューサーとして大成功を収めていた。実は僕、鳥山くんはきっと昔やっていたようなインストゥルメンタルにはもう興味がなくなったんだろうなと思っていたんです。だから、呼び出されたときすごく嬉しかった。

鳥山:あ、そうですか(照笑)。

ーーおふたりが多感な時代を過ごされた70年代後半から80年代前半にかけて、いわゆるクロスオーバーの一大ブームがありました。2003年当時、鳥山さんのなかでそういったインスト志向はどうなっていましたか?

鳥山:日本でもCASIOPEAやT-SQUAREが生まれて、大人気となりましたよね。その様子を横目で眺めながら思っていたのは、クロスオーバーサウンドが日本で独自の進化を遂げ始めているなということでした。

神保:J-FUSIONなんて呼ばれるようになりましたしね。

鳥山:その間僕は、『オリコン』の左ページの上のほうがいつも気になるような仕事をしてたわけですけど、どこかで常にJ-FUSIONの進化についても気になってた。本家本元を前にして誤解を招くような言い方はしたくないんですけど、なんていうのかな、実は、ある種の違和感みたいなものを感じていたんです。それは要するに、J-FUSIONが独自の道を極めたということであり、一方で、僕のなかのインストは80年代頭で止まっている、ということだったんです。

ーー「再会」がそのあたりのことを音で確かめ合う絶好のチャンスとなったんですね。

鳥山:J-FUSIONに抱いていた違和感みたいなものは、リハーサル初日に一気に吹き飛びました。神保くんは「1曲1万発」と言われるほど変幻自在に叩けるテクニシャンだけど、僕にとっては、もう本当に素晴らしいグルーヴドラマーなんですよ。キーボーディストとしての和泉くんも然りでした。

神保:いい意味で昔のまんまでしたね。大人のつき合いじゃないところでまた一緒に演奏できるのが本当に新鮮でした。10代の頃共有したものがあるからこそできることだなと。

ーーそれがPYRAMIDの原点なんですね。

神保:結成当初はO!Kay Boysと名乗ってましたけどね。大学名をいわゆる業界用語的にリバースにして(笑)。僕はその名前をすごく推してたんですけど。

鳥山:和泉くんと僕から大ブーイングを食らって。

神保:はい。却下されました(笑)。

鳥山:正式名称が決まったのは1stアルバムの制作時です。たまたま「PYRAMID」という仮タイトルの曲を僕が作ってて、ふと、それをバンド名にしたらどうかなと思いついたんです。ま、渋々でしたけど、ふたりとも納得してくれました(笑)。

鳥山雄司

ーー本当に残念でならないのですが、その一角を担う和泉さんが、昨年4月に急逝されました。継続という答えにたどり着くまでの思いを聞かせてください。

神保:あまり日も経っていない6月3日、4日、ブルーノート東京で開催した『CROSS OVER NIGHT』、『R&B NIGHT』は、結果的に追悼ライブとなりましたけど、実はスケジュールもゲストもだいぶ前に決まっていたんです。だから、そこまでには何らかの発表が必要でした。最初は途方に暮れていましたが、ふたりとも自然に、「続けるべきなんじゃないか」という思いになりましたね。

鳥山:和泉くんってちょっと芸術家肌なところがあって、意欲に波があったりするんですね。亡くなる前の数年はそれがちょうどいい感じで上り調子で、「インストの新しい形を提示していこうよ」なんて本人もすごく盛り上がってた。そこで急にいなくなってしまったので、本当に打ちのめされました。継続を決めたものの正直、「大丈夫かな?」という不安もあった。でも、いざライブをやってみたら、なんかすごく救われたんですよ、我々が。そこでさらにPYRAMID継続への思いを強くしました。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる