『Luru Binaural Bridge ―越境する時空―』インタビュー
現実空間を拡張した新しい音楽の形=バイノーラルライブとは? LURU HALL支配人に聞く、これからの音響体験の可能性
和歌山県和歌山市にあるLURU HALLにて、10月から12月にかけて開催中の配信を兼ねたライブイベント『Luru Binaural Bridge ―越境する時空―』。この配信ライブはすべてバイノーラル録音にて行われており、人間の鼓膜に近いところにマイクを配置して録音し、ヘッドホンでそれを再生することで、あたかも音が鳴っている現場にいるかのような、臨場感の高いライブ演奏を聴くことができる仕組みになっている。配信ライブが当たり前のように定着したコロナ禍以降の世の中だが、バイノーラルライブは、その土地特有の空気や、現実空間と接続することで最良のエンターテインメントを生み出すという音楽体験になっており、リアルライブの新たな形としても捉えられるから面白い。
今回は、そんなLURU HALLの支配人であり、イベント主催者の田口雄基氏にインタビュー。まさに「音で空間を越境する」ことを体現するような『Luru Binaural Bridge』はどのように企画されていったのか。これからのライブや音響空間はどのようになっていくのか。多岐にわたる会話を通して、新しい音楽体験の在り方を語り合った。(編集部)
「音の良さを物理的な制約を超えて届けたい」
ーー現在は和歌山県のLURU HALLの支配人を務めているということですが、どんなことがきっかけでバイノーラル録音を始めたのでしょうか。
田口雄基(以下、田口):もともとDIYが好きなこともあって、趣味でケーブルやヘッドフォンアンプなどの音響機器を自作しつつ、高価なSACDプレイヤーを導入したりして音楽を楽しむためのリスニング環境を構築し、生の音楽ライブにもよく行くようになりました。楽しかったライブのあと、物販でCDアルバムを買って帰ることがよくあったのですが、ライブと同じ曲が収録されているのに、何か物足りなさを感じることが度々あり、自分が求めているものは、アーティストが一期一会の演奏に臨むエネルギーや、生のライブならではのグルーヴ、熱気だと意識するようになりました。
その頃に、とあるオーディオ雑誌の付録CDに収録されていたバイノーラル収音された環境音と出会って衝撃を受け、「このバイノーラル録音方式で音楽を録ったら素晴らしいに違いない」と直感しまして、サザン音響さんにコンタクトを取り、最初は1週間の機材レンタルから始め、のちに購入するに至ります。
ーー以前は東京に住んでいたとのことですが、なぜ和歌山のLURU HALLで働くことになったのでしょうか。
田口:2012年頃から副業でフリーランスのレコーディングエンジニアとして活動を開始して以来、全国を回っていたのですが、4年前に知人のミュージシャンからLURU HALLのことを紹介してもらいました。LURU HALLはもともと、オーナーの「アコースティックな響きを活かしたライブ配信がしたい」という理想を追求して設計されたホールでしたが、当時はその環境を活かせるレコーディングエンジニアがいなかったそうです。
一方、バイノーラル録音は、録音する環境が音に大きく影響するので、私としても良い録音をするために録音環境が整っている場所が必要だったこともあり、最初は特にLURU HALLで雇ってもらうつもりではありませんでしたが、ホールの環境やアーティストとのご縁に惹かれて移住を決意しました。その後、もともとのLURU HALLのスタッフさんが退職することになり、「ホールの責任者として働かないか?」と声をかけてもらったことで、2020年1月からLURU HALLの支配人として働くことになりました。
ーーLURU HALLでは、2020年3月より有料バイノーラルライブ配信に取り組まれていますが、やはりコロナ禍がきっかけだったのでしょうか。
田口:そうですね。2020年2月に全国一斉休校要請が出た頃から、LURU HALLでも有観客でのリアルライブが難しい状況になりました。ただ、以前から(配信)ライブをやっていたこともあって、コロナ禍に関係なく、配信ライブ収益化の方法を模索する中で、2019年頃からバイノーラル録音を活かして、音の良さを物理的な制約を超えて届けられる仕組みを作りたいと考えていました。
だから、コロナ禍は大きなきっかけではありますが、全くのゼロからライブ配信をするという選択肢に至ったわけでないんです。風向きが変わったことで、それまでのアイデアを実現する方向に舵を切り、すでに決定していた3月3日のライブを有料でのバイノーラルライブ配信に切り替えました。その後、配信開始当初は1台だったカメラを4台に増やしたり、バイノーラルマイクも今年の秋から2本にするなど、徐々に配信周りの機材や音響機材を増やしながら今に至っています。
「現実世界そのものを新しいエンターテインメントにしていく」
ーー田口さんにとってバイノーラル録音の魅力はどこにあるのでしょうか。
田口:一般に、ダミーヘッドによるバイノーラル録音が行われる理由は、立体音響の制作が目的であると思います。そして近年はダミーヘッドを用いずとも、Dolby Atomosや360 Reality Audio、Ambisonicsなどの人工的な立体音響制作技術が発展を遂げています。そういった最新の技術に触れる中で、私はダミーヘッドによるバイノーラル録音の魅力は「立体音響であること」が一番の価値ではないと思うようになりました。
例えば自然音と一緒にセッションする場合、そのセッションの音と、偶然マイクで拾った人工的には再現できない環境音が重なることで、そこにはある種のドキュメンタリー性が生まれます。特定の方向にマイクを向けてしまうと、そのような意図しない音を録音するのは難しいのですが、バイノーラル録音の場合だと、その意図しない音も録音することで、その現場の「時空をまるごと記録すること」ができるのです。もちろん、ダミーヘッドの形状は平均値であるため、聴こえ方や音像定位の正確さには個人差があるのですが、そのことを意識するようになってからは、「立体」音響であることに捉われないようにしながら、より踏み込んだ表現に取り組んでいます。
ーーでは、10月からスタートした『Luru Binaural Bridge』は別のコンセプトでバイノーラル録音をされているということでしょうか。
田口:そうですね。昨年は基本的に1台のバイノーラルマイクを使った録音をしていましたが、『Luru Binaural Bridge』では複数のバイノーラルマイクを使った多重バイノーラル録音という手法を採用しています。『Luru Binaural Bridge』は、バイノーラル録音による音響空間それぞれを1つの時空として捉え、それらを複数同時に視聴者に体験してもらうことで、時間や空間を拡張し、現実世界そのものを新しいエンターテインメントにしていくことを目的にしたプロジェクトです。そのためライブ配信では、客席上とピアノの上など、同じホール内の複数の視点の音声を同時にミックスしたり、事前に森の中で集音した自然音とバイノーラルマイクを使って収音したアーティストのライブ音源をリアルタイムにミキシングしながら、それらを一緒聴けるようにしています。そうすることで自宅でライブ配信を見ている人は、自宅だけでなく、ライブ会場内の複数の視点、森の中といういくつかの時空を同時に体験することができます。
ーーなるほど。それほどバイノーラル録音にこだわるのはどういった理由からでしょうか。
田口:コロナ禍をきっかけにバーチャルライブや配信ライブが以前よりも認知されるようになったことで、その可能性自体も広がったと思います。もちろん、その方向でライブ体験が発展していくことにも期待したいのですが、一方で、現実空間そのものが一番面白いエンターテインメントとして捉えられることにも、この先のライブ体験の希望があると思うんです。
今はApple Musicの空間オーディオや、ソニーの360 Reality Audioのような立体音響コンテンツのおかげで、立体音響も以前より身近になりました。その中であえて、“レガシー”とも言えるダミーヘッドを使ったバイノーラル録音にこだわっているのは、そういった仮想空間で作り込んでいく音にはない、現実世界でしか起こりえない自然音/環境ノイズから生まれる不確実性も含めて、「ここ」に居ながらにして、リアルな別の時空を体感できるという面白さと、ライブ空間が持つエネルギーを繋いでいきたいというのが理由ですね。