木下百花のライブが生み出す、ユーフォリックなサイケデリア 自由を求めて鳴らす音楽の美しさ

 家出、という言葉の響きは私に不思議と懐かしいものを感じさせる。かつて、まだ世界から少年とか青年とか言われていた頃の自分にとって、「家出」という言葉は砂埃にまみれながらも甘美な雰囲気を纏っていた。端的に言えば、それは私にとっての憧れだった。育った家を離れ、自由を手にしたい。何者かになりたい! ……でも、そんなことを考えても実際に家を飛び出す度胸なんて持ち合わせておらず、ただ、音楽や小説の中で何度も何度も、精神的な家出を繰り返していた。J・D・サリンジャー、チャールズ・ブコウスキー、ジャック・ケルアック、中島らも……。そんな自分もいつしか世界から「おっさん」と呼ばれる年齢になって、自ずと育った街も家も飛び出し、赤の他人と生活したりしているのだから、家出は無事成功、晴れて少年は自由を手に入れたのだろうか?

 ……まさか。家出少年は永遠に家出少年。家出は常に現在進行形だ。魂なんて、そう変わるもんじゃないのだ。瞬間的に沸き上がる勇気も、根底で泣き続ける心細さも、ずっと変わらない。ただ、今は「家出」という言葉よりも、どちらかといえば、「ノー・ディレクション・ホーム」。そんなボブ・ディランの言葉のほうがしっくりきている。本当の故郷を、本当の帰る家を探し続けるボブ・ディラン。ディランのCDは引っ越しのときも売らなかった。ああ、帰りたい。どこに? わからない。今はなんとなく海が見たい。気がつけば、家出とは、帰り道探しのはじまりのことだった。

〈星に1番近づいて、風に吹かれて家出した。
ちょっとだけ良い雰囲気になっちゃって
今日は少し空気が冷たいなあ。〉(木下百花「家出」)

 おっさんが家出について考えたのは、木下百花のライブを観たからだ。

 4月9日、木下百花が柴田聡子inFIREを招き、恵比寿リキッドルームにて開催した自主企画ライブ『わたしのはなし 第3話~夜明けのピクニック編~』。去年、『家出』というタイトルのアルバムをリリースし、そこには収録されなかった「家出」という曲を最近配信リリースした“家出少女”木下百花のライブである。恥ずかしながら、私は彼女が元々NMB48というアイドルグループに在籍していたことをこのレポート記事の執筆依頼をもらうまで知らなかったのだが、初めてライブを観た木下百花は、優しくて、穏やかで、哀しい光に包まれるようにして、リキッドルームのステージに立っていた。

「はぁ~、世の中全部嫌になっちゃったから、ここでピクニックしよう!」

 そんな宣誓と共に始まった木下のライブ。「ピクニック」というライブのサブタイトル通り、ステージにはテントや桜の木のオブジェのようなものが飾られており、フロアにもアウトドアチェアが設置されるなど、「非日常」を、あくまでも手作り感あふれる形で創造しようとする木下の想いが、この日のリキッドルームの空間全体に見てとることができた(この日のライブの設定としては、木下が家出をした先に辿り着いたジャングルで、私たちがピクニックをするというもの)。きっとジャングル、すなわち「自然」というものは、木下が本来的に求めるモチーフなのだろう。ライブ冒頭は、出演したテレビ番組での態度やSNSで流れる噂をきっかけに家族と喧嘩して家出する娘、という自分のパブリックイメージをパロディ化した寸劇をかましながらフロア後方から木下がステージに登場し、1曲目「強さ」がはじまる。寸劇のみならず衣装チェンジも繰り返すなど、木下のライブ演出やパフォーマンス能力の高さは確実にアイドル時代を経てきたからこそのものなのだと思うが、それがダイナミックでインディロック的なバンドサウンドと混ざり合うことで、今の木下百花は唯一無二なカオティックさを持った存在になっている。

 バンド編成は、伊東真一(Gt/HINTO)、岡部晴彦(Ba)、吉澤響(Dr/セカイイチ)という、木下の作品のレコーディングにも参加しているサポートメンバーに加えて、りょーめー(爆弾ジョニー)、他にも2人のコーラスも加えた計7人という大所帯。そんな木下百花バンドが作り出す音世界はとてもサイケデリックなものだったが、それはダークで陶酔的なサイケデリアというよりは、木下のフォーキーな歌を軸に、パーカッシブで躍動感のあるビートと、柔らかく光線を描くような伊東のエフェクティブなギター、そしてなによりも7人の人間がまるで大自然の中でじゃれ合う動物たちのように、あまりにも楽しそうに音を奏でる、その陽性な雰囲気が生み出す穏やかでユーフォリックなサイケデリア。その姿は私に、BO GUMBOSや後期ZELDAの生み出したソウルフルで幸福な音楽のこと思い出させたりもした。