木下百花のライブが生み出す、ユーフォリックなサイケデリア 自由を求めて鳴らす音楽の美しさ

木下百花『わたしのはなし 第3話』レポ

 木下の前にステージに立ったゲストアクトの柴田聡子inFIREの素晴らしいパフォーマンスについても触れよう。メンバーにPAとしてダブ界の重鎮、Dub Master Xも加えた彼女たちが作り上げるバンド空間は凄まじかった。これは柴田聡子という個人の声を拡張するためのバンド編成ではなく、むしろ「忘我」のためのバンドだろう。「バンド」というひと塊の肉体で、その空間全体をどのように響かせ、侵食し、揺らすことができるのか?――バンドのプリミティブな「生」の質感を損なうことなく、しかし、そこにDub Master Xの歴戦の反射神経による同時的なサウンドメイクを施すことで、細かくしなやかに跳躍するリズムも、そのリズムを裏切ることのない歌も、高らかに響くコーラスも、すべてが境界線を飛び越えてシームレスに繫がりながら、大きな波のうねりのようにリキッドルームという空間を音塊に浸してみせる。優れた言葉の人でもありながら……というか、「だからこそ」だろう、その言葉も歌も、あくまで身体的なものとして発しようとする柴田の表現者としての強靭さを感じさせるパフォーマンスでもあった。

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 そんな柴田の存在に、木下はMCでこんなふうに触れていた。「こんな見た目だけど、一応、アイドルをやっていたんです。アイドルをやっていると、いろいろあるんです……大人が、大人が、大人が。誰でも生活していると、ストレスが溜まるじゃないですか。そういうときに自分の好きな音楽を聴くと、すごく心が安らぐし、浄化されるような気持ちになる。私は柴田さんの音楽もすごく聴いたし……」と。「浄化」。これは、木下百花にとって音楽という存在がなにをもたらすものなのかを、とても象徴しているような発言だったと思う。「はぁ~、世の中全部嫌になっちゃったから、ここでピクニックしよう!」という、ライブ冒頭の発言も然り。彼女にとって音楽とは、この地獄のような世界で、ひたすら続いていく日々から自分を救うための美しい清涼剤のようなものなのだろう。

 この数字と力で回る世界において、木下の音楽に対する無垢な眼差しや、風や花や海を求める感性、その華奢な体と澄んだ眼差しがはらむ儚さ、明快な形に自分を閉じ込めないその淡い光のような存在感……それらはとても特別なものだ。その特別さは「生きづらさ」と同義とも言えるだろうが、しかし、彼女はそれをことさら悲観しているようにも見えない。それはこの日、アンコールで自身のアイドルデビュー時の宣材写真をバックに「アイドルに殺される」を歌い切った逞しさにも現れていたし、なにより、『また明日』――件の「家出」も収録した6月リリース予定の新作EPにそんなタイトルを付けたことからも明らかだ。木下の眼差しは、自身の繊細な感性を悲観的に見るのではなく、むしろ、自分の音楽に出会う人々の中にも自分と同じような繊細さと弱さを見出しながら、この地獄の日々の先で「また会おう」と約束する、そんな力強い祈りに満ちている。それは彼女の本質的に優しく大らかな心がそうさせるのだろうし、あるいは、アイドルという文化の中にいたことで、人がエンターテイメントを求める心に多く触れてきたこともまた、要因にあるのかもしない。

 家出少女の帰り道は続くだろう。本当の意味での「自由」なんて、この世界には存在しないのかもしれない。しかし、それでも、自由を求める心はある。その心が生み出す音楽はある。それは確かに、美しい事実なのである。地獄のような毎日を、それでも生き抜いていくに足る事実。木下百花はそういう事実を体感させてくれる稀有なアーティストであることを、この日のライブを通して強く感じた。

木下百花オフィシャルサイト

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