映画『リアム・ギャラガー:アズ・イット・ワズ』で描かれる、稀代のシンガーの再生 音楽で掴んだ“自分自身の在り処”とは
『リアム・ギャラガー:アズ・イット・ワズ』は音楽映画のスタイルをとってはいるが、これはそれなりの年月生きてきた人間なら誰もが共感できるアイデンティティの物語、有り体に言うと「自分探しの旅」の話だ。
傷ついた自尊心を取り戻すのは自分にしかできないし、それは歩み続けることでしか成し得ないということに、リアムは自分で気付くことができた。そこで冒頭の「再結成の呼びかけ」話に戻るのだが、それまでのリアムの発言の中には「自分の中で区切りがついていないからもう一度やりたい」というニュアンスが滲み出ていたと思う。しかし今はそうした“過去の落とし前”的な感情よりも「自分が音楽を通じて何ができるか」ということに意識を向けていることが伝わってくる。ロックスターであることと個人の幸福が、分かち難くひとつになっている彼の性(さが)を思い知るが、立ち直ったリアムにとって「再びOasisをやる意味」は、以前とはまるで異なっているはずだ。
Oasisの顛末でいつも思い出すのは、プーマとアディダスの話だ。よく知られているエピソードだが、両者の創業者は血を分けた兄弟で、元々は家業の靴屋をともに切り盛りしていた。2人とも父親から靴作りの技術を教え込まれ、お互い切磋琢磨していたのに、積年のすれ違いからいがみあうようになり、兄はプーマ、弟はアディダスという別々のブランドを設立して永遠に袂を分かってしまった。2人は一生和解することはなかったが、それぞれのブランドがどちらも一流として残っているのは、お互いの存在を常に意識していたからと言われている。
来年の春、リアムとノエルが同じステージに立つかどうかは神のみぞ知ることだが、リアムが「Oasis後」の自分を築き上げ、完全に一人のアーティストとして兄と渡り合えるようになった今は、まさにベストタイミングなのかもしれない。もしかするとノエルも、その時を待っていたのかも......?というのはさすがに考えすぎだろうか。
■美馬亜貴子
編集者・ライター。元『CROSSBEAT』。音楽、映画、演芸について書いてます。最新編集本『ビートルズと日本〜週刊誌の記録』(大村亨著/シンコーミュージック刊)が発売中。