何者にも変異する俳優 菅田将暉にとっての“音楽” 人間としてのエネルギーをぶつける歌に込められた力
菅田将暉、27歳。一種異様な存在感を放つ俳優だ。その若さで、早くも唯一無二の立ち位置を構築してしまった。
彼はほとんど常に何らかの「役」として私たちの前に存在していて、心ときめき惹かれもすれば、心底憎らしくなる瞬間もある。「菅田将暉」とはいったい、何者なのだろうか。
何者にも変異する俳優・菅田将暉
『MIU404』(TBS系)にどっぷりとハマった筆者は、とりわけ最終回までの数週間、本気で菅田将暉が憎らしかった。もちろん、憎らしいのは彼が演じた「クズミ」であって菅田ではないのだが、菅田自身を嫌いになってしまいそうなほど、その表情、言葉遣い、すべてに腹が立っていた。
最終回。実際は「何も持たざる者」だった自分に気付いた瞬間のクズミの表情、そして最後の、生きながら死ぬことを選んだかのような態度が胸を衝いた。あれほど憎らしかったクズミもまた人間だったのだと、一体なにが彼をここまで狂わせたのかと、同情さえ芽生えたことに筆者自身、驚いた。
クズミが最後まで心のない悪役でいてくれたら、あの結末を「せいせいした」とスッキリして忘れられるのに。菅田がクズミに命を吹き込んでしまったものだから、彼が最後に見せたあの姿が、今なお切なくてたまらない。
『MIU404』の放送中、何度も目にした映画『糸』のコマーシャル。断片的な予告だけで、切なさに胸が締めつけられた。綺麗な瞳をもつこの人とクズミが、同一人物だとはとても思えなかった。
役者・菅田将暉を見ていると、彼自身を見失ってしまいそうになる。菅田は、正義に悪にも、白にも黒にも染まる俳優。そのさまは憑依ではなく、もはや変異と言っていいだろう。
「菅田将暉らしさ」を感じられるものこそが、音楽
昨今、歌がうまい俳優は数多く存在する。その多くは「俳優が歌う意味」を体現し、楽曲の世界観を演じることに長けている。
しかし菅田は、俳優として楽曲を演じるのではなく、菅田将暉という「人間」として、音楽にエネルギーをぶつけていると感じる。何色にも染まる俳優・菅田将暉の「人間くささ」「菅田将暉らしさ」を感じられるツールこそ、音楽ではないだろうか。
御多分に漏れず、筆者は「まちがいさがし」が好きだ。菅田は、こうした「陰」の気配をまとう楽曲がよく似合う。
同曲を提供した米津玄師と菅田の、出会いと親和性は奇跡。音域、歌詞、世界観、全てが菅田にハマっている。菅田でなければ誰が歌うのかというほど、菅田将暉がその声で、その感性で歌うべき楽曲だ。
歌い出しのフレーズは、多くの人の心を刺す。誰もが心当たりを持ちつつ、生きていくために見て見ぬふりをしてきたことを、彼らは言語化してしまった。けれど、傷をえぐるのでもなければとどめを差すのでもない。「共鳴」し、心のモヤを晴らすように、歌に変えて昇華した。
同曲のMVで菅田は、冷え切ったような目で、内にこもった熱を歌う。力強さのなかに、どこか脆さを感じる。それはテレビで見る、穏やかな関西弁を話す菅田将暉の表情ではない。幾度となく見せてきた「演じている」表情ともまた違う。この姿こそ、菅田将暉の輪郭であり、本質に近いのではないかと感じた。
そして菅田が歌う"陰"、楽曲が持つエネルギーは、誰かの心を支え得るものだろう。