L’Arc~en~CielやMUCCら所属 MAVERICK DC大石征裕氏に聞く、これからの時代のマネージメント

L’Arc~en~CielやMUCCら所属 MAVERICK DC大石征裕氏に聞く、これからの時代のマネージメント

 L’Arc~en~CielやMUCC、シドなどが所属するMAVERICK DC GROUPの代表である大石征裕氏が自伝『夢の船』を上梓した。

 10代で知り合った44MAGNUMのスタッフとなったことから、バンドのマネージメントやレコード制作に関わるようになりDANGER CRUEを設立。D’ERLANGER、DER ZIBET、DEAD END、そしてL’Arc~en~Cielと多彩なバンドのマネージメントを手がけるようになり、同社を法人化したのが2000年。2002年にはMAVERICK DC GROUPへと組織変更した。

 個性的なアーティストを多数抱える硬派な代表として知られる大石氏だが、多彩な経験をして来たことが現在の姿勢とスタンスを作っている。著書には収まらなかった氏の足跡を、改めて伺った。(今井智子)

挫折して気づいたマネージメントの役割

ーーまずは、大石さんが音楽の仕事に興味を持ったきっかけから教えていただけますか?

大石:10代でバンドを組んだのですが、その頃から音を追求するのが好きだったんです。なんで日本のバンドの音は外タレみたいな音にならないんだろうと、ずっと疑問で。誰も教えてくれないから自分でやるしかない、と研究を始めました。カセットテープでピンポン録音したりしてね。

ーーそれで大阪電子専門学校へ?

大石:それは何もしないためには何かの学校に入ったほうがいいなと(笑)。毎日パチンコして2800円儲かったらやめて、バンドのリハ代を稼いでました。

ーー音への興味が音楽の仕事に進んだ理由ですか。

大石:その頃はまだ音楽は趣味でしたね。録音するのが目的で、演者は誰でもよかった(笑)。はじめに音を提供してくれたバンドがMARINO、すかんちでした。そのうち44MAGNUMからライブのPAをやってくれ、ついでに車で楽器を運んでくれと言われ、一緒に東京に行こう、と行動を共にするようになりましたね。自分から能動的にやったわけではなくて、必然でそうなったんです。なんでもやってみて、ダメなら人に任せるという感じでした。

ーーアーティスト自身がマネージャーとなって、マネージメントのトップになることはよくありますが、PAやレコーディングに興味があった人がマネージメントになるという流れは珍しいのではないでしょうか? それならスタジオを作る側になるのではないかと思いますが。

大石:そうなんですよ。よく言われたのは、なぜレコード会社に入らないんだとか、マネージャーには向いてないんじゃないかとか。当時のLOUDNESSのマネージャーには、「ほかのことはちゃんとできてるのにマネージメントとしては何もできてない」と言われたこともあります。マネージメントが何か、わかってなかったんでしょうね。私はハードロックがベースにあるので、バンドの音のことはよくわかるんですけど。

ーーしかし、現在までたくさんのアーティストと関わっている大石さんと、音作りについて意見を言い合えることは、彼らにとって重要なことなのでしょうね。

大石:本書の最後にはいろんなバンドから私へのコメントが掲載されていますが、とにかく音にうるさいと。特にドラム。今でも気になりますね。

ーーそういう知識があると細かいところに気がいって、全体を俯瞰できないことはありませんか。

大石:それはよくあります。80年代は本当にPAの音が気になってほかのことが後回しになっていました。自分でエンジニアをやると自分の好みのところだけをちゃんとやるので、トータルのサウンドメイクがめちゃくちゃになる。44MAGNUMはそれがバンドの個性にもなったけれど、ほかのバンドは通用しなかった。『ヤング・ギター』誌の編集長だった山本隆士さんに、「音が固すぎてよくないよ」と言われて気づきました。なので、それ以降は音作りに携わることからは手を引いて、マネージメントに専念していくようになります。

ーーたしかに大石さんのマネージメントは、D’ERLANGERと関わるようになってからスタンスが変わったように思います。

大石:彼らはBOOWYやBUCK-TICKの世代で、布袋(寅泰)や今井(寿)のギターの音色をよく聴いてましたね。「元々ハードロックは歌も楽器だった」と話しても、D’ERLANGERは全く共感してくれなかったな(笑)。その後、89年に44MAGNUMとD’ERLANGERが解散したんですけど、それはマネージメントがなっていなかったことに原因があった。それで私はマネージメントに向いていないと思ったし、マネージメントを続けていくには全体を組織立てていかないといけないということに気づくんです。

ーー具体的には?

大石:80年代の私は人の言うことは一切聞いていなかったから、90年代は、何とか人と協調性を持ってやらなくちゃいけないということと、「餅は餅屋」ということを覚えましたね。あの時代は、レコード会社がしっかり機能していた。だから音楽面をコントロールする担当と、ライブをコントロールする担当とリレーションする形になって、外部との協業が身についていきました。その中で、マネージメントというのはバンドの抱える問題を解決することこそが役割なんだと思うようになりました。

ーー90年代はレコード会社が大きな力を持っていましたが、今はマネージメントが自力でやらなければならない部分が増えましたよね。そうした時代のマネージメントについてはどう考えますか。

大石:アーティストと共存していきながら、新人から15年を越えているバンドまで一緒に考えていけるような組織にしないとなと。私も60歳を越えて所属バンドのメンバーたちも40歳を越えて、売り上げを上げ続けるノウハウを構築する必要があると感じています。最近、事務所の1FフロアをYouTubeのスタジオにしたのですが、それもここから発信していくしかないと考えたからで。ロックはニッチなものなので、なかなかマスメディアには扱われにくいですからね。YouTubeも太平洋に塩を巻くようなものだから、何かコンテンツの色をつけていかないといけませんけど。そういったことができるような座組を考えたいです。

 2010年まではプロダクションでござい、アーティストに育成してやるぞ、俺のいうこと聞けよ、というのが純日本風のマネージメントだった。しかし、この15年から20年の間にそのかたちは変わって、より共存型、共同経営者のような関係性になっているんです。以前は音楽さえやれれば後は任せますと言っていたアーティストも、どうしたら収入を増やせるかなど、一緒に考えるようになってきています。私の会社もそういう風にしていきたいと思っています。

ーー大石さんが音制連(日本音楽制作者連盟)の理事長を務めていた時期にフリーマガジン『音楽主義』で、原盤権や印税を解説していたのも印象的でした。

大石:うちからリリースした最初のインディーズがREACTIONの『INSANE』(1985年)だったのですが、この作品はJASRACに著作権を管理してもらっていないんです。なぜかというと、インディーズだから曲はほぼオンエアされないので、放送使用料を徴収する機会がないし、コンサートをやるのも、レコードの売り上げも全て自分たちのものだから。そういう経験もあって、音制連の理事長の時にはやれることをだいぶやったと思います。

ーーそうした意識の変化があるとマネージメントとしての立ち入り方も変わってきますか。

大石:はい。今後はアメリカの仕組みのような契約ベースで、やることを決めていくかたちになるのがいいと個人的には思っています。そうなるとアーティストは事務所との契約はもちろん、レーベルとの契約についてもマネージメント任せではなく、しっかり自分自身で介入していく必要が生まれてきます。そのような交渉もアーティストにとっては欠かせないことになっていくのかもしれません。

ーー御社所属のMUCCのように自身でリリースをハンドリングしながら活動できるアーティストもいるわけですが、近年のレコード会社の役割についてはどうお考えですか?

大石:私も一時期は「レコード会社不要論」を唱えたこともあったのですが、最近はそうでもないなと思っています。特にメジャーのレコード会社は、その名の下にサンプル盤が動いたり情報が流れたりする、たくさんの人が動いている感じがやはりあるんですよね。こうした動きは、事務所がSNSにアップするのとでは伝わり方のボリュームやインパクトが違います。

ーー日本のメジャーレーベルはプロモーション機能が高いから共存できるわけですね。

大石:昨今のメジャーレーベルとの契約では、新人はライブコンテンツとグッズの権利をシェアすることがほとんです。だからレコード会社と事務所とアーティストの隔たりは徐々になくなってきているように感じますね。とはいえ先ほどお話ししたとおり、私は「餅は餅屋」という考えを持っているので、視野を広げて動くようにはしていますが、なるべくそれぞれの専門家がそれぞれの役割を果たすことが重要だと思っています。

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