石崎ひゅーいはなぜクリエイターの評価を集めるのか 兵庫慎司が“目の離せなさ”について考える
5月18日に、3年ぶり2枚目となるフル・アルバム『花瓶の花』をリリースした石崎ひゅーい。もともと、いわゆる音楽好きは言うに及ばず、映画監督や俳優や同業者=他のミュージシャンなどからも注目を集めているシンガー・ソング・ライターで、今作も特設サイトに蒼井優や松居大悟、菅田将暉や園子温などがコメントを寄せている。
──というような「業界大注目」みたいな打ち出しは、彼に限らずプロモーションの手法のひとつとして、よく見かけることではある。ただ──自分も音楽業界人であることを棚に上げて言うが──たとえば「芸能人が通う店」といわれると「芸能人イコール食通じゃねえだろ」と反感を持つ僕のような奴であっても、この石崎ひゅーいというアーティストを取り囲む周囲のザワザワ感には、これまで自分が目にしてきた「業界大注目」とか「クリエイター大絶賛」みたいな売り文句とは、何か違うものを感じている。
たとえば、長年数えきれないほどの新人に触れてきたFMラジオの帯の音楽番組のプロデューサーと話していて、石崎ひゅーいの名前を出したら、その途端に彼の口調の熱が変わった、とか。あるいは、仕事柄、「最近よかった音楽、なんですか?」みたいな質問をされることが多いのだが、そこで石崎ひゅーいの名前を挙げたら、「やっぱり!」とか「そう、そこ!」みたいな熱意で食いついてきた、とか。
くり返すが、クリエイターや業界人が注目している、イコールいいアーティストだ、というわけではない。わけではないが、ただ、いわゆるファンが彼の音楽に、あるいは彼の存在に注いでいる興味にも、何か、それに近い温度の高さを感じる。『花瓶の花』のリリース・タイミングで、僕は男性週刊誌の『SPA!』 にディスクレビューを書いたのだが、twitter等でのそのレビューへの反応の熱さを見て、ちょっと驚くものがあった。
僕のように、よくも悪くも芸歴が長い(んです)音楽ライターだと、「このへんのバンドは何か書くとすごく反応がある」「でも新人とか、『おまえは畑違い』とみなされてるっぽいジャンルだと、たとえどんなに人気バンドであってもあんまり反応ない」というのが、はっきりしている。それがたとえばどのあたりなのかについて具体名を書くのは、自分で自分が悲しい上に相手にとっても迷惑な気がするので自粛しますが、まあ、そういうものです。
が、石崎ひゅーいの場合は、それを超えた反応だった。絶対俺のこととか知らないだろうな、という人たちからも大きな反応をいただいた。で、その事実に、「そうか、やっぱりなあ」と、何かとても納得した。
なので。石崎ひゅーいの何が、聴き手をそんなに熱くさせるのか、考えてみた。
わりとあっさり答えが出た。曲がいいとか歌詞がいいというのは前提として、「危ない」のだ。というか、危なっかしいのだ。消えてしまいそうなのだ。なので、ハラハラしながら目が離せなくなるというか、「今耳を傾けておかないと!」という気持ちが呼び起こされるというか、そういうような音楽なのだ。
メロディも歌詞も、とても純粋だが、ここでいうその彼の純粋さは、限りなく「無防備ゆえ」なものに感じるのだ。「こんなこと歌ったらあんなふうに思われるかも」「聴く人によっては自分の意図と違う捉えられ方をされるかも」というような逡巡やブレーキがない。本当にそう思ったから、そう感じたから、そう書いてそう歌った。以上。そんな印象を受ける、どの曲も。それは作り手の意志としては正しいが、そう表現する際において自分を守ろうとしていない、というか。
「それ、要は“死にそう”ってこと? なんちゅう縁起でもないこと書いてんだおまえ」というのは自覚している。申し訳ないと思う。そしてもちろん、彼には長く元気で音楽を続けてほしいと本当に思っている。いや、もっとシンプルに言います。僕は死なれるのが大嫌いだ。好きな奴なんかいねえよ、って話だが、いや、でも、本当に。