『オトトイの学校 presents 「岡村詩野音楽ライター講座 YMW特別編」』レポート

岡村詩野と田中宗一郎が語る“音楽ライターのあり方” 「自覚と見極めがないまま文字だけが増え続けている」

『オトトイの学校 presents 「岡村詩野音楽ライター講座 YMW特別編』でトークを行った岡村詩野氏(左)と田中宗一郎氏(右)。写真提供:YEBISU MUSIC WEEKEND(撮影:Yutaro Suzuki)

 11月1日~3日にかけて行われた、恵比寿発のエンタメフェス・『YEBISU MUSIC WEEKEND』。同イベントではアイドルやロックバンド、DJなどのライブに加え、音楽にまつわる各業界の有識者たちが活発なトークセッションを行った。今回は、数々の音楽ライターを輩出してきたオトトイの学校の『岡村詩野音楽ライター講座』の特別編として、講師である岡村詩野氏とゲストの田中宗一郎氏(「SNOOZER」編集長、音楽サイト「ザ・サイン・マガジン・ドットコム」クリエイティヴ・ディレクター)が登壇したトークセッションを一部レポート。音楽にまつわる文章を長年に渡って書き続けてきた二人が、ライターのあり方や執筆スタンスについて鋭く語らった模様をお届けしたい。

「批評性とは無縁の、自らのテイスト自慢みたいなものになってしまいがち」(田中)

岡村詩野(以下:岡村):タナソウさんは基本的にこういう場に登場するのを大変嫌う人で、今日も非常に陰鬱な表情で登場されて、「こんなイベント、供給過多だ」と言ってはばからず…(笑)。

田中宗一郎(以下:田中):だって、実際、今、音楽作品も音楽イヴェントも音楽についての文章も過剰供給でしょ。いらないものが多すぎる。今日はライティングの話なので、なるべくライター志望の方向けのお話をするように努めたいんだけど。まず現状、紙の雑誌というのは非常に少なくなった。新聞メディアでもポップカルチャーに割くスペースは特に増えたりしてはいない。でも、ネットに関しては明らかに増えている。企業化されたwebメディアもあれば、個人がやっているブログもあり、実際、個人発信の方がクオリティが高かったりもする場合も多い。ただ、それも含めてあまりに過剰に氾濫していて、自分自身が書いていても、果たしてこれ以上書く必要があるのかな?と思うことがあります。英語がいける人なら、『ガーディアン』さえ読んでりゃいいんじゃないの? っていう。

岡村:書かなくていいものと書くべきものの違いはありますか?

田中:何が必要で何が不必要なのか? についての答えはひとつではなく、難しいところです。ただ、世の中に100人の人がいたとして、100人全員に届けたいと思って書いている人もいるし、10人に読んでもらえれば十分と思って書いている人もいる。でも、大半の言葉はそういうことさえ意識しないまま、ただただ量産されている。だから、状況的にはすごくカオティックですよね。例えば、今は「マスメディアは要らない、webさえあればいい」という論調もあります。ただマスメディアが正しい方向に向かうように市井の人々がきちんと働き掛けてさえいれば、ジェネラルな情報源としてのマスメディアというのは非常に便利なんですよ。100ある情報を10にフィルタリングしてくれるし、10の情報に対していくつもの視点があるなか、とりあえずは1つのアングルを提示してくれます。それを受け手が鵜呑みにせずに判断すればいい。100のブログを読むより、遥かに楽。

岡村:必要とされるものに従ってきた結果、1990~2000年代を最後のピークにしてある程度は崩壊しましたが、依然として一般的に日本における音楽ライターの仕事の軸はリリース・タイミングでの取材ありきという状況です。そこを今一度見直したかったし、他の道筋でもライティングができないものかと考え、私は居住地を京都に移しました。今でも東京と京都とを毎月行き来はしていますが、何のために書くのか、誰に届けたいのかを考え直すいいきっかけになっていると思っています。

田中:マスメディアに書く場合とブログで発信する場合で、モチーフもスタイルもトーンも変わるのが普通だと思うんですよ。マスメディアを通して何かを書くことには縛りがある。あまりマイナーなモチーフは取り上げられない、とかね。でも、その縛りがあるからこそ、面白いものが書けることもある。でも、ブログなり、webメディアで何を取り上げても構わない、となった場合には、大半の場合、批評性とは無縁の、自らのテイスト自慢みたいなものになってしまいがちです。でも、それゆえ逆に、ある意味、閉じられたSNS内での知人・友人間の情報交換の方がそれなりに説得力を持っていることになったりもしている。

岡村:なるほど。

田中:だから、最初に必要なのは、自分自身のテキストが、誰に対して、どういう目的を持ったものなのか? それを書くことには果たして必然があるのか? に対しての自覚と見極めです。ツイッターに書くことと、毎週更新するブログに書くことと、メディアに仕事を依頼されて書くこと、実際にはどれも役割なり、目的が違っているはずなんだけど、そういうことに対する意識のないまま、ひたすら文字だけが増え続けている。実際、web上の日本語で書かれた音楽についての文章の9割はまったく不必要だと言ってもいいと思う。今日ここに来た皆さんに訊きたいんですけど、音楽についてのどんな文章が読みたいですか?

聴衆:『the sign magazine』の「ジュリアン・カサブランカスの新作があまり理解されない」のような、違った視点を与えてくれるものが必要だと思います。

田中:ありがとうございます。今の方の意見は、面白い作品やアーティストの情報を知りたい、というよりは、その作品をより楽しんだり、アーティストをより違った角度から理解したりするためのきっかけになるような、何かしらの視点、アングル、論旨を持った文章が読みたい、それこそ必要とされているという考え方ですね。ただこうした意見はすごく少数派だという気もします。今、大方の場合、音楽にまつわる書き手に求めらている資質は、テイストメーカーだと思うんですよ。ある作品や作家を良い/悪いと言ってくれる、あるいは何かをオススメをしてくれる、そのキュレーション力というか、セレクト力。

岡村:キュレーションというよりも、単なるジャッジメントだったり、ガイドだったり。

田中:「今、何がヤバいのか、教えて欲しい」ってことくらいしか、求められていなんじゃない? 実際のところ。

岡村:でもタナソウさんの存在やその文章がひとつのレコメンドとして機能しているのも事実で、全てのライティング物は期せずしてそういう側面を持っている。

田中:勿論、よくネットの話で言われるフィルタリング、100あるものを10に絞ってくれ、という役割、機能は確かに重要だし、自分自身も何かしらそれを担っていることもよくわかる。でも、それだけじゃ退屈だと思うんです。

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