柴那典×さやわか 『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』刊行記念対談(前編)

初音ミクはいかにして真の文化となったか? 柴那典+さやわかが徹底討論

「電子音楽の系譜に初音ミクがあったことが証明できる」(柴)

さやわか:なるほど。しかし一方で、近視眼的なビジネスの視点でのボカロシーンもたしかにありますよね。ここ数年はメディアやレコード業界が、まさにそこへ一斉に注目している状態が続いています。しかし彼らがそうやってビジネスとして乗ったのはいいことだと個人的には思っているんですよ。しかしでは、何故すぐには乗れなかったのか、ということがすごく気になっています。その理由をどう考えていますか?

柴:それは結局、オーバー30の音楽業界人が「結局オタクのものでしょ?」と最初に思っちゃったことが、壁を作ったんだと思います。レコード業界もそうだったし、プロダクションも、自分も含めて多くの音楽メディアもそうだった。作り手側のクリプトンは、新しい楽器、しかも人格を持った楽器という新しい概念を出したつもりだったんだけれど「プロ向けではない」という烙印が最初に押されてしまった。開発者の佐々木渉さんは「あえてチープに、おもちゃっぽいロリータボイスにした」と言っていますが、僕も含めて2007年の時点ではその意図を理解していなかった。

さやわか:身も蓋もない言い方をすると、音楽業界は、オモチャとして作っているものを「オモチャじゃん」と言ってしまったわけですね。しかしそこで僕が面白いなと思ったのは、佐々木さんのお話の中に竹村延和さんの名前が出ていたことです。

柴:竹村延和さんが初音ミクの開発にあたっての重要人物だったというのは、この本で初めて明かされる事実だと思います。僕にとっても驚きでした。竹村延和さんは、90-2000年代前半にテクノやエレクトロニカのシーンの最前線を走っていた人でした。2002年に『10th』というアルバムを出しているんだけど、その中でスピーチシンセサイザーなどを駆使してコンピューターに歌わせるようなことをしていたんです。で、初音ミク開発者の佐々木渉さんは竹村さんの大ファンだった。クリプトンは初音ミク以前にもいくつかのボーカロイドソフトを輸入販売していましたが、竹村さんは海外製のとあるソフトそれを買って、「使い物にならない。こんなものを売っていて大丈夫なのか?」というクレームのメールをクリプトンに送っているんです。

さやわか:かなり辛辣なメールだったらしいですね。

柴:佐々木さんも相当悔しかったようです。アルバムも全部持っている大好きなアーティストから怒りのメールが届いたわけですから。そこで佐々木さんが「俺がやる」と開発に手を挙げた。竹村延和さんからのクレームに発奮したということが開発のきっかけの一つになっているんですね。電子音楽の系譜に初音ミクがあったことが証明できるひとつのエピソードです。

さやわか:竹村さんに言われたこともあって、徹底的な技術革新を志したことで、使えるものになったと。でも僕が面白いと思ったのは、そこで佐々木さんが最終的には「リアルな人間の声が作れます」という方向性をある程度捨てて、あえてオモチャっぽいロリータボイスにしたという話でした。それは竹村さんに言われたことに、うまい解決を見つけた部分ですよね。

柴:ツッコミどころがあるというのが、結果的に大きかったんでしょうね。いきなり完成度の高いものを見せられても「すげえ」としか言えない、という。特に初期のニコ動はネタ文化というか、動画にツッコミを入れる場所でした。そういう意味で、アイマス(THE IDOLM@STER)は偉大だったと思います。舌足らずでちゃんと歌えていないものをみんなで愛でるという文化が下地になった。それからMAD動画には、深夜ラジオのネタ投稿と似たところがある。よりクールな言い方をすると、ヒップホップの初期もそうなんですよね。この本の中では、80年代のセカンド・サマー・オブ・ラブの当事者であるUMAA.incの弘石社長がそういうことを言っています。要は、それまでの価値観で音楽を聴く人には稚拙としか映らないようなものでも全くいいんだ、と。稚拙なものでもバーンと出して、みんなでツッコミを入れながら場を楽しんでいく、という文化として始まったんだと思います。

さやわか:柴さんが仰ったボカロムーブメント初期の、ただ楽しむためのものであって商業化されていなかった頃というのは、たぶんそういう文化なんでしょうね。しかし商業に乗せていくとある種の洗練をさせなければいけないから、稚拙な部分が排除されていく。それを嫌う人もいると思うんですけど、しかしそれによって大きな意味でのシーンとして完成した、ということなんでしょうね。でもさっきの話で言うと、伊藤社長が志すのは、そんな音楽業界的なシーンの成立を越えて、次の時代にもボカロが残るようにしたいというわけですよね。

柴:伊藤社長の非常にシンプルなビジョンとしては、世の中にもっとクリエイターを増やして、質・量ともに沢山の創作活動が生まれるようにしたい、ということがあるんだと思います。そこにボーカロイドの存在意義があると位置づけている。最後のインタヴューでは、それが地方の活性化や世の中の変化にもつながると言っている。「初音ミク」というものがある、ということ自体はすでに沢山の人が知っているわけです。しかし、あらゆるカルチャーが基本的にそうなんだと思いますけれど、その本質が何かということが伝わるのは、本当に少しずつなんでしょう。

さやわか:なるほど。初音ミクというものが存在する、ということは共通認識にはなった。しかしそこから、だんだんと世代交代が起こっていくんでしょうね。やがて初期のボカロシーン、初期の初音ミクのシーンを知っている人の考え方も古びて、時代に合わなくなっていくはずだけれど、しかし「初音ミクで創作をする」ということだけは将来も残り続ける。初音ミクとかボカロがブームではなく、真に文化になるというのは、きっとそういうことなんだと思います。
(後編【「初音ミクを介してローティーンにBUMPの歌が届いた」柴那典+さやわかが語るボカロシーンの現在】へ続く)

(取材・文=松田広宣)

■さやわか
ライター、物語評論家。『クイック・ジャパン』『ユリイカ』などで執筆。『朝日新聞』『ゲームラボ』などで連載中。単著に『僕たちのゲーム史』『AKB商法とは何だったのか』がある。Twitter

■柴 那典
1976年神奈川県生まれ。ライター、編集者。音楽ジャーナリスト。出版社ロッキング・オンを経て独立。ブログ「日々の音色とことば:」Twitter

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