『カムカムエヴリバディ』新たな戦争描写の境地を開く 多くの人に観られる朝ドラの使命

『カムカム』における“戦争の悲惨さ”

「どこの国とも自由に行き来できる。どこの国の音楽でも自由に聴ける。僕らの子供にゃあ、そんな世界を生きてほしい。ひなたの道を歩いてほしい」

 稔(松村北斗)が思い描く幸せな未来像を安子(上白石萌音)に話して聞かせる。『カムカムエヴリバディ』(NHK総合)第4週「1943-1945」の月曜日(第16回)は、こんなにも幸せなシーンから始まった。ところが、金曜日(第20回)のラストシーンでは、あの時と同じ神社の拝殿の前で、稔の戦死の報せを受けた安子が地面に顔を埋め、「帰ってきて」と泣き叫んでいる。戦争はすべてを奪う。

 朝ドラ60年、全105作中、実に4割以上の作品が戦中・戦後を含め、第二次世界大戦に絡んでいる。ヒロインの夫の自決を通して一市民の戦争責任を問うた『おしん』(1983年〜1984年)。明るく楽しい群像劇なれど、その「明るさ」は戦争の傷跡と地続きにあった『てるてる家族』(2003年〜2004年)。帰還兵のPTSDを苛烈に描き、さらに日本軍側の加虐もしっかりと示唆した『カーネーション』(2011年〜2012年)。徴兵されなかった無力感から生まれた、執念にも似た「人の役に立ちたい」という主人公の思いが戦後の世の中を明るくした『まんぷく』(2018年〜2019年)。さまざまな角度からの戦争描写があった。

 『カムカムエヴリバディ』もまた、新たな戦争描写の境地を開いた。このドラマは、初回からずっと主人公の安子と周囲の人々の「小さな日常」を丹念に描いてきた。四季折々の美しい和菓子が時候を知らせ、庭の紫陽花が椿に変わったことで夏から冬へと時が流れたことを伝える。甘い香りで安子が目覚めれば、祖父や父が毎朝同じ動作で小豆を煮ている。祖母、母、娘へと伝わる料理、編み物、裁縫などの手仕事。浪曲や、エンタツ・アチャコの漫才や、安子の大好きな英語が流れるラジオ。安子はあんことおしゃれが大好きで「この上なく幸せな女の子」だった。

 かつて子どもたちが元気な声を上げながら駆け抜けていた商店街の道を、女子挺身隊の列が通り過ぎていく。ラジオからは娯楽番組が消え、英語が消え、天気予報が消え、表情のない声が戦況を伝えるのみとなった。愛すべき、何気ない日常をきめ細やかに描いてきたからこそ、そこにコールタールのように浸食してくる戦争のグロテスクさが際立つ。

 朝ぼらけの紫陽花に、黒い雨が降り注ぐ。岡山大空襲の後、煤雲がもたらした雨だ。かつて安子が英語講座を聴いていた朝に庭を彩り、小しず(西田尚美)が丁寧に水切りして活けていたものと同じ紫陽花が、黒く染まっていく。安子が、そして私たちがあんなにも愛した岡山の町が死んだ瞬間だ。

 安子の父・金太(甲本雅裕)は大空襲の夜、妻の小しずと母のひさ(鷲尾真知子)に防空壕で待つように言った結果、彼女らを死なせてしまったと自分を責める。終戦から1カ月間、金太は魂が死んだまま寝たきりで過ごした。しかし枕崎台風が上陸する9月17日、安子が見よう見まねで作った「まじいおはぎ」を食べた瞬間、金太の瞳が光を取り戻す。たちばな復興への思いが、金太を生き返らせたのだ。

 「たちばな」の跡地にバラック小屋を建て、代用砂糖でおはぎを作って売るようになった金太は、お腹を空かせておはぎを盗む戦災孤児の少年と出会う。金太は少年に箱ごとのおはぎを渡し、それを自身の才覚で値段をつけて売って、売り上げの中から盗んだおはぎの代金を払うようにと言い渡す。金太は賭けをしたのだ。勘当して出征の見送りもしなかった息子の算太(濱田岳)にどこか似た少年に「菓子を商うこと」への思いを託し、彼が戻ってきたなら算太も無事に戻ってくると、願掛けをした。第17回で小しずが、安子の生まれた日の思い出を語り、算太が「酒屋のおっちゃん」と「生まれるのは男か女か」でラムネ10本を賭けていたエピソードが登場した。お調子者の算太のこうした戯れを、金太は思い出していたのだろう。

 結局、少年はちゃんと売り上げを持って帰ってくるのだが、彼を迎え入れたところで、金太は事切れる。戦地での死でなく、空襲による直接の被害でもない、心身の損傷による時間差の「間接的な戦死」をこんなにも壮絶に描いた朝ドラがあっただろうか。そして、このような亡くなり方をした人も当時数えきれないほどにいただろう。薄れゆく意識の中、金太は最期にラジオを囲んだ家族の団らんの幻夢に包まれて、逝った。最後まで菓子職人の矜恃と、家族への愛を抱きしめて、旅立った。見送りしなかったことをずっと悔いていた算太にも、自らの判断で死なせたと思っている小しずとひさにも、安子の花嫁姿を見ることなく逝ってしまった杵太郎(大和田伸也)にも“許された”。金太は「物語」の中で“赦された”のだ。

 戦争は有無を言わせず人の命を奪うが、フィクションの世界では、その人の死に心尽くしの餞を渡すことができる。「戦死」はその人の人生に起こったほんのひとつの出来事であって、全てではない。せめて最後の瞬間だけでも「幸せな人生だった」と思ってもらいたい。金太の夢のシーンには、戦争で亡くなった多くの人々、そしてその後も何度となく起こる大災害で亡くなった人々への「祈り」がこめられていた。

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