桑田佳祐、ネット初登場! 新曲と音楽を大いに語る「狙ってたらヒット曲ってやっぱりできない」(インタビュアー:萩原健太)

桑田佳祐、ネット初インタビュー!

 ソロシングル『ヨシ子さん』を先頃リリースした桑田佳祐が、ネットメディアで初めてインタビューに応じた。聞き手を務めたのは、学生時代から交流のある音楽評論家の萩原健太氏。桑田佳祐らしい”遊び心”が発揮された新曲「ヨシ子さん」の音楽的背景に始まり、ヒット曲をめぐる考察、さらにはボブ・ディランなど年長世代のミュージシャンへの思いまで、率直な語り口の意義深いインタビュー内容となった。(編集部)

「困ったときは“歌謡曲だ”って答える」

萩原健太(以下、萩原):ニューシングルの「ヨシ子さん」、いいね。基本、あれは打ち込みでしょ? あの手の“ドッツ ドドッチ ドッツ ドドッチ”っていうリズムって、最近ヒップホップでよく聴くけど。意識して……はいないか(笑)。

桑田佳祐(以下、桑田):うん、してない(笑)。

萩原:そう思った。でも、あれ、ドレイクとか向こうのヒップホップの連中が最近よく使っているリズムなんだよね。それを桑田佳祐という人が自分の曲に取り入れたら、そこに磁場のようにいろんなものを引きつけちゃって、妙に無国籍なものが出来上がったな、と。それが面白かった。クセになるというか。

桑田:今回は片山(敦夫)くんっていうキーボーディストと、マニュピレーターのかわちょう(角谷仁宣)っていう人とやっていて。それで、スタジオで通常的な作業をやっていて何となく飽き飽きしたときに、“実はこんな曲あるんだけど”ってやり始めたら、これによって突然片山くんに火が点きまして(笑)。僕はわりと傍観者のように背後から見ていたんだけど、こりゃ意外と面白えなと思い始めたんですよ。ちょっとB級的というかチープなんだけど、いろんな可能性があるなと。

萩原:歌詞には最近主流のEDMのこととかをちょっと揶揄するような感じもあるけれど、あれは後から思いついたものなの?

桑田:レコーディング作業っていうのは、ときたまマジメに考えすぎて自滅する場合もあるから。詰めすぎた後に疲れて、何となく力が抜けてね。“別のことをやろうか”というときに、たまたま出来上がった無意識の副産物みたいな感じだね。

萩原:この曲の歌詞を聴きながら思ったんだけど。桑田佳祐という人は、70年代の終わりくらいに出てきたじゃない? 僕はその前に幸運にも、アマチュア時代にステージを観たり、一緒に演奏させてもらったりしていた時期があって。で、そのころに桑田佳祐という人が提示していた、日本語をとてつもなくグルーヴさせる感覚――。

桑田:あの頃はほとんど歌ってなかったからね、言葉なんて(笑)。

萩原:ちゃんとした単語が<ベイビー>と<Oh>しかなかった(笑)。でも、特に初期のサザンオールスターズは、日本語というものをいかにロック的にグルーヴさせればいいか、という面白い実験というか、アプローチをしていたじゃない。

桑田:まあね。

萩原:で、今はそういう方法論を誰もがわりと身につけちゃってる時代ではあると思う。そんななか、桑田佳祐も最近はちょっと芸風が変わってきて、日本語の響きも大事にして、意味も伝わってほしい、みたいな曲も増えてきたでしょ。

桑田:そりゃ、そうでしょうね。アマチュア時代と同じというわけにはいかないからね。

萩原:ところが、そんなところへ「ヨシ子さん」って曲が出てきて、桑田佳祐という存在を初めて知ったときに覚えた興奮みたいなものが蘇ってきたのね。最初に聴いたときは、サビまで何を歌っているかわからなかったくらいで(笑)。

桑田:はっはっは(笑)。歌うためには歌詞が必要だ、と考えるのが普通だけど、昔は“響き”があればサウンドになる……と思っていた。
 我々の学生時代ってそうじゃない? 音楽に意味をまぶして、誰に対しても責任を取る必要もないから、それで良かったし。そういう衝動、発作みたいなものが、たまに今となっては懐かしくもあって。
 昔はボキャブラリーも少なかったし、“オッペケペー”じゃないけど、反射的に無責任な言葉を入れていたからね。言われてみれば、「ヨシ子さん」もそういう感じだ。

萩原:でも、意味がないかといえばそんなことはなくて。今の時代のいろんな文化みたいなものに対して“それがナンボのもんじゃい!”って言いながら、ボブ・ディランやデヴィッド・ボウイに言及して、自分が多感な時代に受け止めてきた往年の文化を誇りに思っていることを高らかに歌って。でも、そう言いながら打ち込みやってるじゃん、みたいな(笑)。そういうところが、すごく桑田佳祐っぽいと思った。

桑田:ナンボのもんじゃい、なんて思ってないよ(笑)。

萩原:ビデオクリップもすさまじい。いろんなもの何でも入れちゃいましたみたいなね。原色っぽいような、無国籍っぽいような。

桑田:知り合いのカメラマンの人で、中国だとかタイだとかの山岳民族の方たちの写真がすごく好きな人がいて、その人の作品にも影響を受けたんですよ。イースト・ミーツ・イーストじゃないんだけど、僕らは日本という、文化の吹き溜まりみたいなところにいるわけだから、先祖をたどればインドネシアだとか、フィリピンだとか、タイの山奥だとか、ああいうところに繋がっていくんだろうな、という思いがあって。
 例えば“卒塔婆”のことを“ストゥーパ”と言ったり、盆踊りとか、お墓だとか法事だとか、アジアの端から端までの起源の同一性をよく意識するわけだ。つまりそういうことが楽しめるようになってきたのかな。

萩原:アメリカのトランプ旋風だとか、イギリスのEU離脱の話なんかも含めて、“この国だけで成り立たせろ!”“移民・異文化を流入させることをやめろ!”みたいな、妙な動きが世界的にあったりするじゃない。そういうなかでこういうごちゃ混ぜのものを普通に作ってもらえると、ちょっとホッとするね。

桑田:音楽をやっているとね、例えば“エンヤートット エンヤートット”っていうリズムが、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に入っているという話がとても感動的だったり、文化の塀の上を歩いていて、ちょっとこっち側に転ぶと、たまたま異文化にたどり着く、という感覚があるじゃない?
 そういうことも念頭に置いて、今回はいろんな言葉を駆使して若いスタッフからも普段ボクが知らないようなボキャブラリーを事情聴取したんだよね(笑)。お互いにいろんなワードを出して、<“ナガオカ針”しか記憶にねえよ>みたいな世代間ギャップみたいなものを歌いながら、世代や人種を超えて共通するようなものを探っていった。

萩原:DNA的なね。

桑田:うん。この頃は、メディアや情報的にも俺なんか疎くなっていく中で、そういう肌感覚みたいなものだけを探していたような気がする。

萩原:この前、テレビ番組で“「ヨシ子さん」について話してください”と言われて、困ったの。“ジャンルは何ですかね?”とか聞かれて。結局そのときは思いつかなかったんだけど。でも、帰る道すがら思ったのは、つまり“これは歌謡曲なんだよな”と。貪欲に、いろんな要素を世界各地から取り入れちゃう強さというのは、われわれが誇るべき音楽として体の中にしみついている歌謡曲の感覚だなぁと。

桑田:確かに、僕も困ったときは“歌謡曲だ”って答えるようになってる。昔、アン・ルイスさんに言われたことがあって。“ロックか、歌謡曲か”みたいなジャンル分けの論争もあったときに、アンちゃんが“日本語で歌っているものは、全部歌謡曲だと思ってやってる”と。それで、全てが俺の中で腑に落ちたというか(笑)。

萩原:歌謡曲という言葉が意味するところが“流行歌”と同じだとすると、要するに日本のポップミュージックのことだもんね。「ヨシ子さん」の初回盤に、WOWOWの開局25周年記念特別番組で披露した、「東京」のフルバンドバージョンが入っていたけど、あの番組で、過去の歌謡曲をたくさん歌っていたでしょ。それを観て思った。やっぱり桑田佳祐という人がハマる曲とハマらない曲がすごくハッキリしてるなって。

桑田:あ、本当?

萩原:歌謡曲と言っても幅は広いわけで、そのなかで、“あ、桑田佳祐のDNAになっているのはこういうタイプの曲なんだ”って。例えばちあきなおみとか、藤圭子とか。あとはクールファイブね。違うのは、フランク永井とか。

桑田:フランクさんは、仰る通り一筋縄でいかないものがあった(笑)。洋楽・邦楽ともに、自分に染み付いているのは67年から73年くらいまでしかないから(笑)。
 小学校5~6年から高3くらいまでが最も色濃くて、ただ歌謡曲の歴史から言っても、そこに藤圭子も、いしだあゆみも、ちあきなおみも、尾崎紀世彦も……最高の逸材がみんなそこにいてさ。だから世代的にすごく運がいいと思うんだけど。
 洋楽もだいたいそんな感じで、「マサチューセツ」(1968年/ビージーズ)から始まって、『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』(1973年/エルトン・ジョン)までで俺の場合終わっているんだね(笑)。

萩原:大学入ったらもう何もない、みたいな(笑)。自分で音楽をやるようになっちゃったから?

桑田:そうなんですよ。そうやって昔を振り返ると、この30年くらいはとても空虚な思いで、手探りしながら自分の音楽の制作に向き合うだけだったからね。

萩原:(笑)。

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