BRAHMAN・TOSHI-LOWが語り尽くす、言葉と格闘した20年 「あざとい考えが頭に出てくる前に、先に歌が出るような体にならないと」

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 BRAHMANが、8月12日に初の2枚組ベストアルバム『尽未来際』をリリースした。今回リアルサウンドでは、結成以来20年間で発表してきた各楽曲やアルバムにおいてTOSHI-LOWが表現しようとしてきた「言葉」に焦点を当ててインタビューを行った。自分と現実の常識との間で矛盾を感じながら歌詞を書いてきたTOSHI-LOWは、どうその矛盾と折り合いをつけてきたのか。

茨城・水戸でバンドを始めた高校時代、パンク・ラウドシーンの大きなムーブメントを生んだAIR JAM期とそれ以降、そして東日本大震災。20年のBRAHMANの歴史を紐解くインタビューとなっている。聞き手は、「東北ライブハウス大作戦 〜繋ぐ〜」の著者である石井恵梨子氏。(編集部)

「そこに偶然あったのがバンドだった」

一一初めてオリジナルの歌詞を書いたのって、いつですか。

TOSHI-LOW:15くらいだよ。最初に組んだバンドで、すぐ。

一一何を書いたか覚えてますか。

TOSHI-LOW:うん……。“溺れる人々”みたいな。そこに自分は飲み込まれない、みたいなこと書いた。すっごい暗い歌詞。最初からそうだった。俺、バンドやるなら楽しいことを歌いたいとは思ってなくて。むしろ、モヤモヤした何かがあったからバンドに惹かれたんだと思うのね。

一一ロックバンドが、最初にその受け皿になってくれた。

TOSHI-LOW:そう。自分の中に自分でも受け止められない何かがあって、何かしなきゃいけない、何かにならなきゃいけないと思ってる時期で、そこに偶然あったのがバンドだった。俺がもっとスピード狂ならその気持ちはバイクに向かっただろうし、もっとエグいこと好きだったら半グレのチンピラになったかもしれないし。でもやっぱり、排出したいものが心にすごくあったと思う。

一一バイクかチンピラかバンド……。それっておそらく茨城・水戸の特異性ですよね。「本当にバンドとヤンキー文化が一緒だった。ヤンキーとバンドが別々でもよくなったのはTOSHI-LOWの代からじゃないかな」って、笠間コブラ会の人から聞いたことがある。

TOSHI-LOW:ほんとにそう。俺の1コ上、2コ上ぐらいまでは、族もやってバンドもやるのが普通だった。コールも切れて速弾きもできるみたいな(笑)。で、俺らの代くらいから、どっちかになっていくんだけど。でも並列に存在してるから(ヤンキーとバンドの)喧嘩もよくある。歩道橋で、何百台と族が来るところ上から狙ってションベンしてみたりさ。でも……そういうのが普通だと思ってたけど、特殊だったのか(苦笑)。

一一そうやってヤンキー文化にまみれて喧嘩も楽しめるTOSHI-LOWくんと、モヤモヤを抱えながら自分の言葉を書こうとする文学的なTOSHI-LOWくんは、今もいますよね。

TOSHI-LOW:うん、変わってないと思う。

一一周囲からは変な奴だと思われていたのかな。

TOSHI-LOW:いや? まともだと思ってたけど。でも当時ライブハウスに来てたガキ、道端に座り込んでたヤンキーの奴らでもいいんだけど、そいつらといると居心地良かったの。そこには家庭環境が良くない人も、何かしらのはずみでドロップアウトした人も多くて。まぁ俺は中の上ぐらいのドロップアウト感(笑)。まだまだ上はいるんだけど。でもやっぱり、同じ脛に傷持つみたいな部分があったと思う。相手もわかってくれてる感じがあったしね。

一一ただ、家庭環境が悪かったのかって、別にそうではないんですよね。

TOSHI-LOW:そうなんだよね。両親もいて、そんな困るほど貧乏じゃないし。当時も言われてた。「お前、ここにいなくても、家帰ればいいじゃん」って。まぁそうだよね。だから……目に見えて不幸なことがある人はいいなぁと思ってたぐらい。いっそのこと親死んでくんねぇかな、とか本気で思ってた(笑)。そういうこと言うと「なんでそんなにスレてんの」って話になるじゃない? それを説明できない。俺の心はこんなに寂しいし悲しいし、今ここにいたいと思ってるのに。

一一たぶん当時は必死ですよね。こういう理由でこういう人格になりましたとか、物事はそんな簡単じゃないんだ、っていうことが高校生には理解できない。それより自分の中に芽生えた想いを肯定してほしい。

TOSHI-LOW:そうそう。必死。でもさ、バンドでスタジオ行って横の繋がりができていくことは、自分がどこまで行っても一人なんだと思ってた感覚に反して、すごく嬉しかったこと。だけど同時に、その……茨城のヤンキーにまみれてる頭の悪い感じ、じゃない自分を頑張って作ろうとしてたの(笑)。番長なのに百点取れるみたいな。だから文学的というか、詩的なものにすごく憧れたのも事実で。

一一詩人として憧れた人っていますか。

TOSHI-LOW:萩原朔太郎が好きだった。スターリンが好きだったから、ああいうドロドロした詩を書く人が好きで。俺、もともと音楽が好きだったかっていうと全然好きじゃないし、音楽の成績とか最悪だったの。もうヘド出てくんのよ。明るい歌とか、みんな頑張りましょうみたいな歌。「ほんとかよ?」っていう思いが強くて。「なんで不幸が目に見えてんのに、みんなそれを盲目的に無視して、楽しもうとしてるんだ?」って。だから「夢を語れ」とか言われても「……なんでそんなことできんの?」って思ってた。

一一単にひねくれてたと言うこともできるけど。それは、幼い頃から死について考えていたという思考とも関係してます?

TOSHI-LOW:だと思う。なんで生まれて生きて死んでいくのか、その単純なことに答えも出ないのに、どうしてこの人たちニコニコして生きていられるんだろう、みたいなさ。「頑張れば幸せになれるよ」「……嘘じゃん! 頑張ったって幸せになれない人はなれないし、どう足掻いても人は死んでくんだ」っていうのが強かった。だから表現するんだったら、楽しい歌なんて絶対嫌だった。自分がその時思ってる本当のことを歌いたいなと思ってた。

一一ただ、それをストレートな言葉で書くことはなかったですよね。ブラフマンの最初の音源の歌詞を読んだとき、文学というか、哲学を相当寄りどころにしてる人なのかなって思ったんです。

TOSHI-LOW:まず、歌詞ってそもそも枠が決まってるじゃん。その中で、書いては消し、書いては消して、なんとか答えに近づきたい、自分でも答えを知りたいと思ってた。だから哲学ってわけじゃないけど、真理とか、そういう言葉に惹かれてたのは事実だね。意味わかってなくても、こういう言葉が自分が言いたかったことに一番近い気がする、みたいな。

一一“晴眼”なんて言葉を見つけると「これかもしれない!」って?

TOSHI-LOW:そうそうそう。「これだ! 俺これだよ!」みたいな。すぐ影響されちゃうから(笑)。背伸びしまくり。言葉をちゃんと使えてない。だから拙いんだけど、その時はその時で一生懸命だった。当時の知識とキャパシティで、なんとか詩的に、哲学的にしたいって。でもそうやって必死に並べた言葉は、のちのち意味が出てくるんだっていう……それは皮肉でもあり、人生の面白さでもあるなと思っていて。

一一うん。よく読むと変わってないし、今に繋がることを書いてますよね。たとえば「THE SAME」の“予見し 制御せんがために 知るための 行動を”っていう一節は、どういう出来事から出てきたか覚えてますか。

TOSHI-LOW:これはまぁ……自分の言ってることとやってることが違う奴がいて、結局やらないの。だから、そいつの悪口(笑)。知らない人が見たら深いこと書いてるように見えるだろうけど、ほんと「あいつよぉ」みたいな(笑)。そういうの多いのよ。抽象的な言葉を使いすぎてるけど、もともとの理由を探れば「え、そんなもんなの?」っていうことだったりする。悪くいえば妄想を膨らましてるのかもしれないし。でも被害妄想で「あいつ許せない!」って思うこと、他の人みたく「まぁまぁ」って流せないこと……たぶん、心のヒリヒリする度合いが人より強かったのは事実だと思う。それは一個、自分の才能だったんだなと思うし。

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