『NEEDY GIRL OVERDOSE』ゲーム初心者もハマる強烈な中毒性 配信者の女の子をプロデュースして“本当の幸せ”に導けるか

2026年4月のTVアニメ放送を前に、累計300万本ダウンロードを突破したインディーゲーム『NEEDY GIRL OVERDOSE』をプレイしてみた。普段はアニメこそよく観るものの、ゲームはもっぱら乙女ゲームしかプレイしたことのない筆者にとっても、本作の世界はどこか異質で、気づけばのめり込んでしまうほどに強烈な体験だった。なぜ、それほどこの作品に惹かれたのか。その理由は、このゲームが「ゲームらしくない」からかもしれない。
『NEEDY GIRL OVERDOSE』は“アイドル育成ゲーム”ではない
『NEEDY GIRL OVERDOSE』は、2022年1月にSteamでリリースされたマルチエンディングアドベンチャーゲームだ。プレイヤーは「ピ」と呼ばれる恋人兼プロデューサーとして、承認欲求が強めな女の子「あめちゃん」と30日間を過ごす。あめちゃんは配信時にコスプレして「超絶最かわてんしちゃん」(以下、超てんちゃん)というインターネットエンジェルに変身し、オタクたちに向けて配信を行う。プレイヤーの目標は、30日間で超てんちゃんのフォロワーを100万人にすること。
しかしこのゲームは、いわゆる「アイドル育成ゲーム」のようなキラキラした成長譚ではない。30以上存在するエンディングの多くは「ハッピーエンド」とは呼べないものばかりだ。配信に病むエンド、依存が暴走するエンド、陰謀論を唱え始めるエンド、そして彼女が死んでしまうエンドまである。つまりはフォロワー100万人を達成しても、それが彼女にとっての「幸せ」とは限らないということだ。
そうして、気が付けばあめちゃんの「本当の幸せ」とは何だったのかばかりを考えてしまう本作だが、ゲームの操作自体は難しくない。画面に映るのはあめちゃんのPCデスクトップで、そこにはSNS、メッセージアプリ、配信ソフト、ブラウザがある。アクションゲームの反射神経も、複雑な戦略もいらない。普段からSNSを使っている人なら、直感的に何をすればいいかがわかるゲーム初心者にも優しい設計だ。
ただし、あめちゃんの1日に使える時間は、私たちと同じように限られている。配信させるのか、外に連れ出すのか、休ませるのか、それとも薬に頼らせるのか。どのボタンを押すかで、彼女の1日がまるごと変わっていく。他人の生活をそっと覗き見しているようなワクワク感がある一方で、彼女の生活そのものを“運営”しているという緊張感も常につきまとう。恋人であり、マネージャーであり、共犯者でもある。プレイヤーはそのすべてを同時に背負わされる。
配信をすれば人気は上がるが、ストレスも溜まる。デートに連れ出せば好感度は上がるが、配信機会を逃す。ゲーム内にはストレス、好感度、やみ度といったパラメータがあり、好感度を上げすぎると依存が強まり、やみ度が上がればインターネットの闇に飲まれていく。何度も「さっきまで元気だったのに」という瞬間を経験したプレイヤーも多いはず。しかし、それが本当に元気だったのか、超てんちゃんとして元気なフリをしていただけなのか……だんだんとわからなくなっていくのも本作の面白さである。
プレイヤーの選択の積み重ねが、あめちゃんの生死を左右する
特に驚かされたのは、ゲーム内のSNS「ぽけったー」の作り込みだ。超てんちゃんの表アカウントと、あめちゃんの裏アカウントがある。表では「学校なんかいかんでええ!」と明るく投稿しながら、裏では「行かんでもいいけど、行ったほうがええ……」と真逆のことを呟いている。現実のSNSでも、表向きの投稿と本心が違う人は少なくないだろう。あめちゃんはその極端な例であり、だからこそ妙に生々しい。
フォロワー数が増えれば、コメント欄には賞賛だけでなく誹謗中傷も流れてくる。バズを狙えば、超てんちゃんの言動は過激になっていく。配信中のコメント欄も管理も“ピ”の仕事だ。悪意のあるコメントを削除したり、スーパーチャットの中から読み上げてもらうコメントを選んだり。荒らしを放置すれば彼女のストレスが上がるし、良いコメントを拾えば配信が盛り上がる。そしてプレイヤーは気づく。SNS上の超てんちゃんの「人格」は、すべて自分の選択の結果なのだと。
このゲームでもっとも鋭く胸に刺さるのは、「選択の積み重ねが、あめちゃんの生死を左右する」という事実だ。関われば責任が生まれ、判断を誤れば彼女は簡単にいなくなる。ひとつのエンディングに辿り着いても、それで正しかったのか考え込んでしまい、別ルートを試さずにはいられない。その往復運動のなかで、あめちゃん/超てんちゃんの存在は、ゆっくりと生活の隙間に入り込んでくる。これこそが『NEEDY GIRL OVERDOSE』の強烈な中毒性だ。
あるルートでは、あめちゃんが崩れていく過程が、ピクセルアート特有の粗さで描かれる。ほんのわずかな表情の揺れ、ぎこちないモーション、色の濁り。描写が完全ではないからこそ、プレイヤーは本当は見えていない部分を想像で補うことになる。余白が生む想像力が、恐怖を増幅させる。この距離感の演出は、このゲームならではの巧さだ。
プレイを続けていると、あめちゃんが思いどおりには動かせない相手だと痛感する。通知は絶え間なく届くのに、その中身はただの雑談や突拍子もないひと言ばかりで、こちらの意図とはまるで噛み合わない。さらに、彼女の感情が乱れるほどBGMはざわつき、画面の前の自分の心まで巻き込んでくる。架空のキャラクターのはずなのに、妙な実在感があり、こちらに本物のストレスを与えてくるのだ。
だが、この噛み合わなさは欠点ではない。むしろ、このゲームが描こうとしている「関わりの不安定さ」そのものを、体験として感じさせる仕掛けになっている。滑らかさとはほど遠い感情の揺れまで抱え込んだまま進む、その不協和の感触こそが、この作品ならではの手触りを生んでいるのだろう。
超てんちゃんが放つ“危うさ”と“眩しさ”
一方で、超てんちゃんが配信画面に現れた途端、まず目を奪われるのはその存在感だ。圧倒的に可愛い顔立ちなのに、帯びているのはどこか危うい光。そのアンバランスさがクセになる。「おまえらのすべてを赦してやる! 救済してあげる!!!」と豪語する姿は過激でありながら、妙な吸引力があるのだ。ついてこいと言われれば思わず従いたくなるし、「幸福に生きろよな!」のひと言には、不意に背中を押されてしまう。危うさと眩しさが同時に立ち上がる彼女は、振り回されていると分かっていても視線を奪われてしまう“インターネットエンジェル”で、その磁力のような魅力を真正面から浴びることになる。
そして人気が集まってもなお、“超てんちゃん”という仮面の隙間から、あめちゃん本人の生々しい気持ちが漏れ出す瞬間がある。その瞬間に立ち会えたとき、プレイヤーは心から思うだろう。このゲームを続けてよかった、と。
繰り返しにはなるが、この作品が求めてくるのは、複雑な操作でも、ゲーム的な反射神経でもない。私たちが日々、誰かの生活に触れるときと同じ種類の関わり方だ。インターネットに触れたことのある人なら誰でも直感的にプレイできる代わりに、必要なのはただひとつ――1人の女の子の人生に、足を踏み入れる覚悟である。




























