SFドラマ『三体』のVRデバイスは実現できるのか “没入体験”の歴史と現在地から考える

そして未来へ さまざまな企業・研究機関が取り組む、テクノロジーによる五感の再現

 現在の市場にある技術からシラフのままVR環境を作り上げれば、だいたい原作やテンセント版のようになる。現実の物理感覚に身を置きながら、主に視聴覚をVRの世界へと持っていく、といった具合に。

 Netflix版『三体』のVR体験はしかし、原作やテンセント版より簡素な装備であるのに、はるかに没入感が高い。いったいどうやって実現しているのだろう?

 まず想起されるのは、サイバーパンクの世界観だ。脳から神経への電気信号を操作して、電脳世界に“没入(ジャック・イン)”し、意識をまるごとその世界へと委ねる。

 たとえば、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』(黒丸尚・訳、ハヤカワSF文庫)では、額などに電極をつけ、椅子に体を固定して、ナイロンのハーネスで固く固定する。そして、主人公はこうつぶやくわけだ。

「あとはお定まり--電極(トロード)、没入(ジャック・イン)、そして転(フリップ)」

 その後もこうした作法は2020年代のゲーム『サイバーパンク2077』などに至るまで、脈々と受け継がれている。とりわけ、映画『マトリックス』などは極致も極致だろう。あまねく人類は赤い卵のようなカプセルのなかで培養され、プラグをゴテゴテと突き刺されて生まれてから死ぬまで仮想空間のなかで過ごす。いわゆる、「水槽の中の脳」というやつだ。

 また『三体』の世界では電気刺激だけでなく、化学的な刺激も併用しているのかもしれない。電気刺激は筋肉に関わる認知をかなりの程度左右できる。先に言及した「Vスーツ」も電気刺激によって圧覚を生じさせていたが、なんとなれば身体を動かさずとも「動いた感覚」を与えることも可能だ。たとえば、足への腱電気刺激は踏み出す感覚を生じさせ、足首の腱への電気刺激は地面の傾きや揺れをおぼえさせ、指の甲の腱への刺激は指を曲げた感覚を生じさせる。

 つまり、理屈の上では、寝そべったままでも運動感覚を得られはする。平衡感覚を司る前庭神経への刺激と組み合わせれば、けっこうなリアリティを出せるのではないか。仮にそうだとしても頭部の上半分だけを覆うHMDでは限界があるが……。

 付け加えると、電気刺激なら味覚もコントロール可能だ。電気刺激によって味が生じるのは古くから知られている。舌の両面に電極をつけ、電流と周波数を調整すれば、甘味、塩味、酸味、苦味のバリエーションをコントロールできる。しかし、これだけだとなかなか実用化がむずかしいらしい。

 一方で、ベースとなる物質から味を調整する方向の研究では、2020年に明治大学の宮下芳明教授が『Norimaki Synthesizer』という五味(酸味、甘味、苦味、塩味、うま味)を合成できる“味ディスプレイ”を開発している。五味の電解質を封じた寒天をチューブにつめ、電気によってそれぞれの味の強弱を操作し、任意の味を演出できるという。

Norimaki Synthesizer

 視覚、聴覚、触覚、味覚ときたら、のこりは嗅覚。

 が、嗅覚だけは電気刺激ではいかんともしがたい。いちおう手術して鼻奥に電極を突っ込めばどうにかならないこともないらしいが、触覚同様「ヘッドセットだけで五感を再現」という今回の趣旨、もっといえば美学に反する。

 イーロン・マスクに言わせればNeuralinkのようなブレイン・コンピュータ・インタフェース(BCI)がすべての答えなのだろうけれど、筆者が思うにむしろVRの霊性は「ヘッドセットを着脱する」という行為にこそ宿るのではないか。

(編注:『VRChat』に自室を再現したユーザーがゴーグルを外す瞬間。自室に“居た”はずのアバターたちが突然消えてしまったかのような感覚に陥る)

 VRの父であるジャロン・ラニアーがいうように、「もっともすばらしいVR体験はHMDをはずした瞬間に訪れる」のだ。実際、Netflix版『三体』では着脱の動作が画面の転換と運動を生じさせている。官能的ですらある。コロナ禍のロックダウン期がマスクの着脱フェチを生んだように、VRヘッドセットもいずれ似たようなフェティシズムに至るのではないか。いや、もうすでに存在するのかも……。

 なんの話だったか。そう、嗅覚。

 実は電気刺激に固執さえしなければ、VRにおける嗅覚の技術はそこそこ拓けている。たとえば、OVR Technology社の『ION 3』、Scentient社の『Escents』、アロマジョイン社の『Aroma Shooter』などは、香料を合成してVR体験と連動した複数の芳香を生み出せるカートリッジを備えたウェアラブル・デバイスだとして開発が進められている。

OVR TECHONOLOGYの『ION 3』。ワイヤレスでウェアラブル。

 劇場や映画館で幾度となく試みられては挫折してきた「映像と香りの融合」は、VRの分野でこそ果たされるのかもしれない。それにあの銀色のデバイスにも、ものすごくがんばれば、ギリギリおさまりそうだ。

 ……おや? どうも実現できそうな気がしてきたぞ、Netflix版『三体』のHMD。

 サウンドの音漏れだって耳元を密閉性を高めるか、骨伝導方式にすればいけそうだ。味覚は嗅覚と視覚に大きく左右されるから、映像と香りのカートリッジに加えて、実際に触れられるアクセサリとしての食器やカトラリーにこっそり『Norimaki Shynthesizer』のような味ディスプレイを仕込めば、お行儀よく食事を取っているていでVR中の食べ物に味を感じられるかもしれない。砂の味を感じたい場合は……空気中に土の味がする粉状の物質を粉塵爆発に気をつけつつ撒いておくとか。

 触覚は神経筋電気刺激やハプティック・スーツに頼れないとなるとかなりの難関だ。しかし、突破口がないわけではない。

 『Haptopus』という触覚デバイスがある。これはヘッドセットで顔と接触する部分にいくつか吸引孔を取りつけるもので、VR上で装着車の指がなにかに触れると、吸引孔が顔面に吸いつく仕組み。「肌を吸われたから、なに?」とおもわれそうだが、これで脳は「物体が指に触れている」と錯覚してしまう。ちなみにこれを「触覚転移」と呼ぶ。研究者によると「触覚情報を異部位にて感じる現象(Referred Sensation)」を利用しているのだそう。

VR/触覚研究者・亀岡嵩幸に聞く、“バーチャルと身体の現在地“ 「とても良いデバイスでなくともいい、将来の土壌を作ることが重要」

以前からも徐々に注目を集め始めていたものの、2020年からのコロナ禍以降、爆発的に注目を集めている「VR」や「メタバース」といっ…

 もうひとつ使えそうなのが、「ファントム・センス」だ。これはたとえばVR上に存在するものに触れたときに、物理的な実態が伴っていないはずなのに「触れた」という感覚をおぼえてしまう効果のことだ。

 触覚におけるファントム・センスには、VRでの累計滞在時間が長ければ長いほど感じやすくなる傾向があるという。50万時間(約57年)ほどVR世界で生活しつづければ、おそらく十分に“ファントム・センス筋”が発達するのではなかろうか。そんな時間をかけなくとも、三人称視点のゲームでキャラクターが落下した際に、ジェットコースターなどで感じる浮遊感を覚える人はVR適性が高い可能性がある。

 これらを組み合わせれば……組み合わせて、がんばれば……Netflix版『三体』みたいなHMDだけでも五感をカバーできそうな気がする。いや、できる。きっと、できる。

 われわれには「ファンタスマゴリア」を始め、五感をフルに活かす体験を模索してきた長年の歴史がある。人類の可能性を信じろ。

 さあ、侵略者どもを迎え撃とう。周の文王を救うヒーローとなれ。

ーー文明#616は異星文明の侵略によって滅びました。この文明は、『三体』実写ドラマ化レベルまで到達していました。

文明の種子はまだ残っています。それはいつかふたたび発芽し、『三体』の予測不能の世界で育ち始めるでしょう。またのログインをお待ちしています。

〈参考文献〉
鳥原学『教養としての写真全史』筑摩選書
柳下毅一郎『興行師たちの映画史 エクスプロイテーション・フィルム全史』青土社
服部桂『VR原論 人とテクノロジーの新しいリアル』翔泳社
『バーチャルリアリティ学会ライブラリ2 神経刺激インターフェース』コロナ社
https://m-nerds.com/3deiga_darega(ふぢのやまい「3D映画を信じ続けるのは誰か」ムービーナーズ)
https://webarchive.nla.gov.au/awa/20040204192315/http://www.acmi.net.au/AIC/PHANTASMAGORIE.html(Russel Naughton「ADVENTURES in CYBERSOUND Robertson's Phantasmagoria」)
https://www.cabinetmagazine.org/issues/64/turner.php(Christopher Turner「CINEMATIC AIRS The battle of the “smellies”」cabinet magazine)
https://www.nytimes.com/1959/12/10/archives/smells-of-china-behind-great-wall-uses-aromarama.html(Bosley Crowther「Smells of China; 'Behind Great Wall' Uses AromaRama」The New York Times)
https://www.youtube.com/watch?v=LOt3pcRhDjw(「Aura Interactor - 90s VR tech. How does it hold up today?」Super Nicktendo)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sobim/43/1/43_11/_pdf(河合隆史「VR 空間におけるクロスモダリティ活用への取り組み」)
https://theriver.jp/3body-problem-headset/(SAWADY「ドラマ「三体」のVRヘッドセット、なぜあのデザインに? ─ 鏡面加工、映り込む撮影クルーも除去」The RIVER)
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2203/31/news065.html(山下裕毅「味をデジタル化する「電気味覚」の可能性(前編) 「味をSNSへ投稿する」を実現するための研究)」ITmedia
https://www.technologyreview.com/2023/05/09/1072731/vr-smell/amp/(Tanya Basu「New research aims to bring odors into virtual worlds」MIT Technology Review)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/vconf/2021/0/2021_29/_pdf/-char/ja(バーチャル美少女ねむ、Liudmila Bredikhina「ファントムセンス(VR感覚)の実態調査」)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvrsj/26/3/26_17/_pdf(亀岡崇幸「触覚と HMD:Haptopus の 提案」)
https://en.wikipedia.org/wiki/Phantasmagoria(wikipediaの「ファンタスマゴリア」のページ)

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