Ken Ishii×中塚武×宇出津和仁と『パックマン』を起点に考える「ゲーム音楽とクラブミュージックの好相性」

鼎談:『パックマン』とクラブミュージック

 1980年に日本で誕生し、アメリカでも大ブレイクしたことで「80年代のミッキーマウス」とも呼ばれた大ヒットゲーム『パックマン』が、今年で発売から40周年を迎えた。

 アニバーサリーイヤーを記念して、今年は新作ゲームや様々な施策が登場。そして音楽面でも、Ken Ishiiが40周年のテーマ曲「JOIN THE PAC」を担当し、この10月には彼や中塚武、Buffalo Daughter、パソコン音楽クラブ、sasakure.UK、DiANによる『パックマン』の素材を使用した楽曲や、エイフェックス・ツインが1992年にPower-Pill名義で発表した「PAC-MAN (Original Full Version)」などの貴重な音源を収録したコンピレーションアルバム『JOIN THE PAC – PAC-MAN 40th ANNIVERSARY ALBUM -』が発売された。

 世代もジャンルも様々なアーティストが集ったこの作品は、どんなふうに完成したのか。Ken Ishiiと中塚武、そして『パックマンチャンピオンシップエディション2』のプロデューサーであり、現在はバンダイナムコエンターテインメントのパックマンルームに所属する宇出津和仁氏に話を聞いた。(杉山 仁)

「作品を魅力的にするものには『突き抜け感』がある」(中塚)

左から、Ken Ishii、中塚武、宇出津和仁。
左から、Ken Ishii、中塚武、宇出津和仁。

――まずはお三方の関係性を整理させてください。宇出津さんと中塚さんは、ともにナムコで働かれていた元同僚ということでいいんでしょうか?

中塚武(以下、中塚):僕と宇出津は、ナムコ時代の同期だったんですよ。

宇出津和仁(以下、宇出津):よく覚えているんですけど、4月1日に入社式をして、その後に諏訪湖湖畔のホテルに向かって1週間研修していたんです。中塚とはそこで初めて会って、昼ごはんを隣で食べたんですけど、彼が中華を食べたとたんに、周りにも聞こえる声で「マズっ!」と反射的に言ってて、「一体何者なんだ」と(笑)。最初の出会いがそれでした。

中塚:ははははは(苦笑)。

宇出津:そして、中塚はアーケードゲームの企画開発部のメンバーとして、『パックマン』の生みの親でもある岩谷徹さんの直属の部下として働くことになったんですよ。

――そもそも、中塚さんは『パックマン』が大好きで、岩谷さんに憧れてナムコに入社したそうですね。

中塚:そうです。小さい頃から『パックマン』が大好きだったんですけど、確か小学5年生になった頃、『Beep』という総合ゲーム雑誌の創刊第3号か4号かで、「ビデオゲームの歴史」の特集があって、そこに『スペースインベーダー』や、ナムコの人気タイトル『ギャラクシアン』『パックマン』『ゼビウス』などの開発者インタビューが載っていたんです。岩谷さんの名前を知ったのもその記事がきっかけで、「岩谷さんのもとに行けば、ゲームデザイナーになれるのかな」と考えながら、暇さえあれば『パックマン』の絵を描いていました。

Ken Ishii(以下、Ken):へええ、それはすごい。お2人は何年生まれなんですか?

中塚:僕らは1973年ですね。

Ken:ああ、僕は1970年生まれなので、僕もまさにナムコの最初の黄金時代をリアルタイムで過ごしました。小さい頃から、ゲーセンにしょっちゅう行っていて。大口にライオン堂という店があって、子どもが喜ぶ駄菓子などと一緒に、ゲームの筐体が置いてあったんです。

中塚:ああ! 僕も大学の頃、ゲームウォッチを集めるためにその辺りに行っていましたよ。

宇出津:一方で、僕は富山の田舎出身です。あの頃のゲームセンターはちょっと怖い印象だったし、小学生だと1回100円の新作ゲームは高くてあまりできなかったですけど、当時は街の色んな場所にある駄菓子屋さんに小さいテーブル筐体が置いてあって、そこで1回50円とかでできるゲームがあったんですよね。

――当時、『パックマン』を筐体で遊んだときのことを思い出してもらえますか?

中塚:当時のアーケードゲームは『スペースインベーダー』(1978年/日本のビデオゲームの火付け役として知られる作品)的なものが主流で、レバーと攻撃ボタンを操作して敵を倒すものが人気でした。あれってたぶん、ブロック崩しを動かせるようにしたものに、当時の『未知との遭遇』のような世界観を加えたものだったと思っていて。僕はそういうゲームも好きだったんですけど、一方で『ヘッドオン』(1979年/サーキットを模したドットイートゲーム)のようなゲームもすごく好きでした。それである日ゲームセンターに行ったら、カラーで、『ヘッドオン』と同じような迷路があるんだけれども、自分で動かせる新しいゲームが置いてあって――。それが『パックマン』だったんです。まず驚いたのは、レバー1本だけで「攻撃ボタンがない」こと。僕は左利きで、ボタンの配置によっては腕が交差して操作しづらい瞬間があったんですけど、『パックマン』はそんな僕でも楽しめるゲームでした。

――岩谷さんは「女性でも子どもでも、誰にでも楽しめるゲーム」を目指して『パックマン』を開発したそうですが、実は左利きの中塚さんも救っていたのですね(笑)。

Ken:(笑)。僕の場合は、小学校の頃『スペースインベーダー』や『ギャラクシアン』が大好きで、『パックマン』が出たときももちろんすぐに飛びついたんですけど、当時の僕にはなかなか上手くプレイできなくて、当時はもっと単純なシューティングゲームをやっていました。『パックマン』って、当時大人もかなりやっていたようなイメージがありましたね。

宇出津:確かに、『パックマン』って田舎のスナックにもあったんですよ。『パックマン』が販売開始した80年頃、親に連れられていったスナックに『パックマン』のテーブル筐体が置いてあって、暗いお店の中で、カラフルに光り輝いて見えました。そこで100円を父親にもらって遊んだんですけど、すぐに死んでしまい、「これは難しい」と子供ながらに思ったのが、僕と『パックマン』との出会いでした。その頃って、まだ僕が遊んでいたお店では白黒の『インベーダー』っぽいゲームや『サーカス』(風船割ゲーム)が主流で、『パックマン』はあまりやり込んだ記憶はなかったです。実際にやり込んだのは、ファミコンが発売されて自宅でも遊べるようになってからのことでしたね。

中塚:当時はまだ小学生なんで、お小遣いが少なくて。『パックマン』が近くの駄菓子屋に来たときは1回50円だったんで、100円でも2回しかできないんですよね。それで、人がやっているところをずっと後ろから観察して、パターンを覚えて、夜寝るときも「あれがこうなって、こうだから……」と、ずっと攻略法を考えたりしていました(笑)。

――今日はリアルタイムで『パックマン』を遊んでいたみなさんでもあると。ちなみに、Kenさんと中塚さんは今日が初対面のようですね。

中塚:はい。「本物だ!」と思って、今もあまり目が合わせられないです(笑)。Kenさんは「海外でも活躍しているアーティスト」と言うイメージで、僕にとってのレジェンドと呼べる方です。自分のバンドで海外ツアーをしていても、現地の方はみんな知ってますし、実際にかかっていたりするんですよ。特に日本びいきな場所ではない、ロシアのお洒落なストリートでもかかっていて「すげえ!」と。

――中塚さんは、Kenさんの音楽にどんな魅力を感じますか?

中塚:これは、ゲームをつくっているときもそうだったし、音楽もそうなんですけど、僕は作品を魅力的にするものに「突き抜け感」というものがあると思っていて。シンプルにしようとしているわけでも、複雑にしようとしているわけでもなく、ただ衝動でドーンと鳴らされた音が、すごい力を持つ瞬間があると思っているんです。『パックマン』とKenさんの音楽は、その衝動の部分が共通していて、すごく魅力的なのかな、と思います。

Ken:確かに、「強いものがむき出しでガーンとある」というのは、世代や人種を越えて、多くの人に一番伝わりやすい方法だと思います。もちろん、色んな要素が詰まっている1曲というのも面白いですけど、聴く方にもテクニックが必要になったりしますよね。そういうものがなくても、「聴けば2秒で魅力が伝わる」という強さは、音楽の魅力のひとつですよね。

――一方で、Kenさんが中塚さんの音楽に持っているイメージといいますと?

Ken:ジャズっぽい音楽性のイメージもありますし、ポップスでも勝負できる方でもあると思いますし、本当に色んなところで名前を見る印象で。その幅の広さがすごいと思います。

中塚:Ken Ishiiさんが僕の名前を知ってくれているとは……! 今日は祝杯ですよ。

――2006~2012年の『NEWS ZERO』のOP曲もそうですが、中塚さんのお仕事は本当に多岐に亘っていますよね。

Ken:ああ! 『NEWS ZERO』の曲もそうだったとは知らなかったです。それはまさに、今お話した「強いものがむき出しでガーンとある」魅力に繋がる話ですね。

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる