渡邉大輔が論じる、ウェアラブルカメラGoPro最新機種「HERO7」が映画表現にもたらすもの

新型GoPro「HERO7」と映画表現

「表象」であることを伝えていた手ブレ/画面ブレ

 だが他方、もちろんそのことで失われるものも少なくないだろう。

 おそらくHERO7以降、2020年代のウェアラブルカメラは、かつてのような映像の「手ブレ」や「画面ブレ」という要素そのものを過去のものとしていく。もしかしたら、映画やテレビ、そしてネット動画の観客・視聴者たちは、「手ブレ」という表現がかつて画面にはあったこともやがて忘れていくのかもしれない。手ブレや画面ブレは、さきほどの『リヴァイアサン』のエモーショナルな多視点的カメラワークも含めて、とりわけデジタルカメラが映画制作に本格的に使用されるようになった90年代以降、国内外のすぐれた映画作家たちにより、映像の新たなリアリティを体現するものとして自覚的に捉え直され、方法的に洗練されてきたという経緯がある。 

 このコラムでその詳細を述べることはできないが、たとえば90年代のラース・フォン・トリアーら「ドグマ95」の実践や、カメラマンの篠田昇とともにいわゆる「岩井美学」を作り上げた岩井俊二などを思い起こしていただければよいだろう。あるいは、およそ90年代末から2000年代になると、山下敦弘や松江哲明らが初期作品において、当時流行していた「フェイク・ドキュメンタリー」のスタイルをシニカルに取り入れた作品を撮るようになる。そして、なかでも面白かったのが、そのフェイク・ドキュメンタリーの形式を独自に追求していった白石晃士の作品群である。彼は自作のなかで、手持ちのデジカメの手ブレを活かして、そのままシームレスにつぎの異なるシーンに編集をつなげる「ブレつなぎ」といった、手ブレ(による画面ブレ)を逆手に取ったユニークな表現を生み出した。あるいは、手ブレを活かした風景映画を独自の映像理論(揺動メディア論)とともに作り上げた若手映像作家・佐々木友輔の活動もそこに含まれる。

 こうした現代映画の数々の表現が示すのは、手持ちのデジタルカメラに特有の手ブレという技術上の制約を、創造的かつ批評的な表現に昇華した事例である。つまり、これらの表現は、いま観客や視聴者が観ている映像が、ふつうわたしたちの瞳が媒介なしに眼差している現実の世界そのままではないこと、なんらかの技術的・メディア的なフィルターをかいして表れているものであること――ようするに「表象」であることのシグナルを発していた。

 ところが、こうした画面のブレをいっさい意識させず、何もかもをクリアに捉えるHERO7的な映像は、こうしたわたしたちと世界とのあいだに横たわる表象の齟齬を忘却させる。ある意味で、それはわたしたちの眼がそのままカメラになり、インターフェイスとつながっていくような実感をもたらす。もしそうしたリアリティが広範に浸透したとき、映像表現はその本質から決定的に変化するだろう。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

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