『オークストリートの異変』はなぜ“ご都合主義”を恐れないのか? 懐かしさの正体に迫る

郊外に暮らすある家族が突如として現れた恐竜たちからいかに生き延びるかを物語とする、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の『オークストリートの異変』が、批評的にも興行的にも粘り強く支持されている。ロバート・ミッチェルは、ホラーというジャンルの可能性を押しひろげた『イット・フォローズ』(2014年)や、LAの夢と陰謀を描いた『アンダー・ザ・シルバーレイク』(2018年)などの過去作からすでに映画ファンの注目を集めてきた。本記事では、『オークストリートの異変』の物語の設定とその解決に見いだされる、ある種の「ご都合主義」に目を向けてみたい。そこからは、現在のハリウッド映画とわれわれが生きるこの世界の現状が見えてくるはずだ。

※本記事では、『オークストリートの異変』のストーリーの核心についての記述があります
オークストリートに暮らす、父・グレッグ(ユアン・マクレガー)、母・デニース(アン・ハサウェイ)、娘・オードリー(メイジー・ステラ)、息子・ブライアン(クリスチャン・コンヴェリー)、犬のスターバックからなるプラット家が、この物語の主人公たちだ。いっけん幸せそうに見えるプラット家だが、一家には見えない亀裂が走っている。父は失業中で、母は隠れて小説を執筆しており、夫婦仲が険悪なことは、子どもたちも勘づいている。ある夜、強烈な光とともに街には無数の恐竜が出現し、次々と隣人たちが襲われてゆくなか、プラット家は生き延びる道を探してゆく。
映画中盤、彼らは、過去と現在の時空がつながり、ある地点が入れ替わっていることに気づく。そして球形でメタリックな外観をしたタイムポータルを見つけ、それを通じて元の世界に戻れる可能性があることを知るのだが、父が信じがたいことに家族の目の前で恐竜に食べられてしまう。その後、母と娘と息子はふたたび別のタイムポータルを発見し、オークストリートの街がワームホールに飲み込まれるわずか前の世界に戻ることに成功する。
ここからが本作の核心となる。ハサウェイ演じる母は、失業中のためピザのデリバリーをしていたマクレガーに電話をかけて3人がいる場所に呼び出すとともに、隣人たちにも逃げるように伝え、自分たちが経験した惨状から父と隣人たちを見事に救いだす。ハサウェイの機転によるこの救出劇の顛末は、彼女自身によって一冊の本として出版される。家族の仲は見事に修復され、映画は仲睦まじく過ごす一家の姿を映して無事に終わる……。

「ご都合主義」にノれるかノれないか
多くの人は、タイムポータルを通じてハサウェイたちが元の世界に戻り、父親や隣人たちを救うことによって家族の絆までもが結びなおされるという、物語の強引な結末に「ご都合主義」を感じとってしまうだろう。とくに、嫌なヤツであった隣人のメル(P・J・バーン)までもが救われてしまうところには、ご都合主義を通りこした楽天主義すら漂っている。裏を返せば、こういった物語のシンプルな力技の解決の仕方は、観客が映画にノれるかノれないかが試されるところでもある。じっさい、私も含めた周囲の反応は、本作のご都合主義を好意的に捉える意見が多かったものの、そこにノれないという意見が出てきてもおかしくはないだろう。しかし、さらに興味ぶかいのは、2026年の現在、このような力技による解決が、むしろどこか「懐かしく」見えてしまうという逆転現象のほうだ。
監督のロバート・ミッチェルは、公式パンフレットに収録されたインタビューで、本作の制作のモチベーションについて語っている。「私は80年代に子ども時代を過ごしたし、自分にとって大切なあの時代に戻ってみたかったんです。70年代から80年代にかけては、観客が共感できるような魅力あふれるキャラクターが登場する映画がたくさんありましたよね。[…]もちろん現代の映画にそうした作品がないわけではありませんが、あの時代こそが、そうした映画手法の頂点だったと思うんです」。
さらに肝心なのは、次の発言。「スペクタクル、サスペンス、アクション、そして個人的な問題。いわゆる“ポップコーン・ムービー(娯楽映画)”に期待される全ての要素を盛り込むことが、私にとって重要でした」。ここから浮かびあがってくるのは、ロバート・ミッチェルが言うようなかつての80年代的な「娯楽映画」が、現在ではすっかり失われてしまっているという事実であり、それこそが『オークストリートの異変』が「懐かしく」思えてしまう所以だろう。




















