『リボンヒーロー』の手塚治虫リスペクト描写 古典を“配信時代”にアニメ化する意義とは

70年前の手塚マンガを配信アニメにいかに転生させるか

ツインエンジンの俊英アニメーター・五十嵐祐貴が初の長編監督を手掛け、8月8日から全世界配信が始まったNetflix映画『THE RIBBON HERO リボンヒーロー』(2026年)が、同社が配給を手掛け、やはりNetflix配信から始まった『超かぐや姫!』(2026年)同様、9月4日から2週間限定で劇場公開されている。本作の醍醐味の一つでもある、ダイナミックなアクションシーンが大きなスクリーンでたっぷり堪能できる絶好の機会だ。
本作は、初監督を務めた『スター・ウォーズ:ビジョンズ』エピソード8「のらうさロップと緋桜お蝶」(2021年)でも五十嵐がオマージュを捧げたマンガ界の巨匠・手塚治虫の代表作であり、日本における本格的な少女向けストーリーマンガの先駆とされる『リボンの騎士』を原案にしている。
実写にせよアニメにせよ、リメイクは今日の映像文化において表現的にも興行的にも重要なアプローチになっている。特に2010年代以降、『おそ松くん』(1962-1969年)や『ゲゲゲの鬼太郎』(1965-2013年)、あるいは『SLAM DUNK』(1990-1996年)といった往年の名作アニメが大胆なリメイクによって脚光を浴びる例が増えている。
ただ、『リボンの騎士』の場合は、最初の原作マンガが70年以上も前、虫プロ制作のテレビアニメですら60年前の作品であり、リアルタイムでオリジナルに親しんだ――つまり比較してリメイクを楽しめる――世代の視聴者が、上記の作品群に比較すると、ほぼいない。また、「男装の麗人」=「戦う美少女」といった、60、70年前であれば斬新だったモティーフも、21世紀の現在ではむしろ保守的にすら映りかねない。おそらく、この判断が、あくまでも「原案」というクレジットに反映されている。
ここでは、本作が、手塚マンガのリメイクをNetflix映画としていま作ることに、作り手がどう対処しているのかを掘り下げてみたい。
ジェンダーのテーマ設定からの脱却

本作での五十嵐の演出を特徴づけるのが、前作に続く巨匠への巧みなオマージュと、それに関する斬新で実験的な表現である。
とはいえ、内容的に言えば、繰り返すが、本作は、あくまでも「原案」と銘打っているように、『リボンの騎士』のあらすじとはほとんど別物と言ってよいほど大胆に変更されている。
特に目立つのは、『リボンの騎士』をリメイクするという場合、誰もが発想しそうなジェンダーに関する重要な描写やテーマ設定が、本作では総じてオミットされている点だろう。手塚治虫の原作が、1950年代当時としては新しかった「男の子のようにアクティヴに戦う女の子」のイメージとしてサファイアを造型していたとすれば、本作のサファイアは、むしろジェンダーやセクシュアリティに関係なく、巨大な力に押し潰されそうになっているポストコロナ禍の現代を思わせる世界に抵抗するために戦うヒロインに改変されている。
もちろん、『リボンの騎士』に限らず、ジェンダーアイデンティティやセクシュアリティの撹乱は、後述する幼少時の宝塚歌劇の原体験に基づく、手塚作品に頻繁に見られる重要な主題であることは、繰り返し指摘されてきた。
最も象徴的なのは、やはり『リボンの騎士』だが、これ以前の『メトロポリス』(1949年)にも、喉にあるスイッチで男にも女にも変わるというミッチィという人造人間が描かれた。また、『リボンの騎士』[『少女クラブ』版]やテレビアニメ版には、『THE RIBBON HERO リボンヒーロー』のヘケートの名前の元ネタである彼女の父としてメフィストフェレスが登場する。周知のように、メフィストは、手塚が10代の頃から終生愛読し、何度も自らの手でリメイクしたゲーテの『ファウスト』(1808-1833年)のキャラクターとして知られる。古今東西の世界文学やオペラなどで数多く描かれてきたメフィストは一貫して男性だが、『ファウスト』を翻案した『百物語』(1971年)や未完の遺作『ネオ・ファウスト』(1987-1988年)で、手塚は歴史上初めて(おそらくただ一人)、メフィストを女性キャラクターとして造型した(『ファウスト』研究の権威・長谷川つとむはこの手塚の試みを高く評価した)。
これらの経緯は、監督の五十嵐含め本作の作り手も十分に知っていることだろう。が、本作ではおそらく、原案の主人公が持っていたジェンダーの問題に踏み込むことがあえて意図的に避けられている。この点では代わりにむしろ、物語のサブプロットとして配置されたサファイアとパインのシスターフッド的な「友情」や、サファイアと母親であるシルバーランド王妃の「母娘」関係などのほうが注目される。これらは奇しくも『超かぐや姫!』とも共通する要素であり、昨今のエンタメではリアリティがあるモティーフだろう。『リボンの騎士』の忠実なリメイクを期待した往年の手塚ファンにとっては不満もあるかもしれないが、私も、これらの改変や方針は、ごく賢明な判断だったと思う。
舞台的なセノグラフィに窺われる手塚リスペクト

むしろ、五十嵐がこだわった原作へのオマージュは、本作の形式面にはっきりと見られる。
冒頭から演劇を模したセノグラフィが印象的な本作は、画面手前に客席の観客の頭が覗くその奥に、ステージと装飾的なプロセニアムアーチが登場し、左右の袖幕が開いて、物語が始まる。その後も、全部で7幕仕立てになっている物語は、節目ごとに臙脂色の袖幕が閉じては開き、その構成は舞台の公演を強く想起させる。ちなみに、このシーンを手掛けているのは、『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年)などでもお馴染みのアニメーション作家ユニット「劇団イヌカレー」の泥犬である。
さらに、物語のクライマックス、サファイアがロバの英雄やネルガルとの最終対決に及ぶシーンで、突如、物語自体が脱臼され、昔のホームムービーのようなテイストで、現実の兵庫県宝塚市の、阪急や宝塚ホテル、宝塚大劇場などの実写映像がいくつも点綴して画面に登場し、果ては『少女クラブ』版の『リボンの騎士』の初版単行本の画像までが登場する自己言及的な表現が挿入される。こうしたいわゆる自己言及性やメタフィクション的な趣向もまた、賛否を呼びうる要素になっているのは、確かだろう。

また、以上のように、映像と舞台、2D作画と3D、アニメーションと実写、そして従来のアニメテイストからアートアニメーション風まで、複数の異なるメディアや絵柄が渾然一体と用いられるのが、本作の映像の特徴と言える。
ただ前提として、そもそも、天使のいたずらで女の心と男の心を持って生まれた主人公が「男装の麗人」に扮して悪と戦うという、原案となった『リボンの騎士』の設定が、まさに手塚治虫が幼少年期から親しんでいた地元・宝塚市の宝塚歌劇団の影響を強く受けていることは、すでによく知られている。
しかも、本作が打ち出したメタフィクション的な表現は、実は、手塚の元の原作にあるものだ。(よく知られた1960年代の『なかよし』版ではなく)『少女クラブ』に連載された一番最初のバージョン(1953-1956年)を『手塚治虫漫画全集』収録版(全2巻)で確認すると、各巻の冒頭で、語り手と思しい女性(もしくは少女)が登場し、主要キャラクターを紹介した後、「では お話を始めましょう」と読者に対して語りかける。また、物語の序盤では、サファイアが宝塚歌劇団を象徴する楽曲「すみれの花咲く頃」を口ずさむ場面が登場する他、舞台のような演出の場面も描かれている。もとより、『奇蹟の森のものがたり』(1949年)や『ふしぎ旅行記』(1950年)など、20代(1950年代)の手塚は、しばしば自作に自らを語り手として登場させたり、マンガのコマのフレームをモノに見立てたり、メタフィクション的な描写を積極的に行っていた。また、自身も青年時代にアマチュア演劇活動をやっていた経験から、後年の『七色いんこ』(1981-1982年)のように演劇をモティーフにした作品や、『火の鳥 羽衣編』(1971年)のように、舞台空間を意識した構成の作品も少なからず残している。
手塚マンガを代表するスターキャラクター、ロックを登場させたり、原作にもあるサファイアが白鳥へ変身する演出を取り入れたり(この白鳥は火の鳥も思わせる)と、今回いたるところに手塚作品へのオマージュをちりばめた五十嵐だが、『THE RIBBON HERO リボンヒーロー』の野心的な演出も、以上のような手塚フォロワーとしてのかなり正統的な参照意識に基づいていることがわかる。




















