『箱の中の羊』“結末”の意味を考える 是枝裕和による“手放す”ためのグリーフワーク

食卓の不在と、箱庭からの飛翔
綾瀬はるかと大悟を主演に迎えた、是枝裕和監督の最新作『箱の中の羊』(2026年)。
子どもを亡くした夫婦が、息子と寸分違わず同じかたちをしたヒューマノイドを迎え入れることから始まるこの映画は、SF的なモチーフを扱いつつも、その手触りは間違いなくいつもの是枝作品だ。ここには、キャリアの初期から一貫して見つめ続けてきた「喪失」と「遺された人々」、すなわちグリーフワーク(愛する者を失った悲嘆と向き合い、新たな生を再構築していくプロセス)が物語の中心に刻まれている。

突然夫を失った妻の喪失感を切り取った『幻の光』(1995年)、死者たちが天国へ行く前にたった一つの大切な記憶を選ぶ『ワンダフルライフ』(1998年)、カルト教団によるテロ事件の加害者遺族の葛藤に迫った『DISTANCE』(2001年)、長男の命日に集まる家族のある一日を見つめた『歩いても 歩いても』(2008年)、父の死をきっかけに出会う異母姉妹の絆を紡いだ『海街diary』(2015年)……。
是枝作品は常に、大切な人を亡くして止まってしまった時間が、再び動き出すまでのプロセスを丁寧に見つめてきた。『箱の中の羊』もまた、息子を亡くした夫婦が、ヒューマノイドという「実体を持った死者」とどう向き合い、生を立て直していくかが主軸となっている。
さらに、「大人たちの社会を外側から見つめる存在」の配置も過去作と共通している。『誰も知らない』(2004年)で、社会から見捨てられた子どもたちの無垢な瞳が、大人たちの無責任さを告発していたように。あるいは『万引き家族』(2018年)で、血の繋がらない息子の冷めた眼差しが、疑似家族の嘘を暴き出したように。

ヒューマノイドの翔(桒木里夢)もまた、過去作から続く「社会や大人を批評する究極の部外者」として機能している。建築家の妻・音々(綾瀬はるか)と工務店社長の夫・健介(大悟)は、ヒューマノイドという「鏡」を突きつけられることで、これまで見て見ぬふりをしてきた夫婦間のズレや、自分たちの中にあるエゴと向き合わざるを得なくなるのだ。
一方で本作は、監督がこれまで築き上げてきた演出手法を、自らの手で解体もしている。もっとも象徴的なのが、食卓の不在だろう。これまでの是枝作品で、人と人を結びつける最強の装置は「食」だった。『歩いても 歩いても』のトウモロコシの天ぷら、『海街diary』のしらすトースト、そして『万引き家族』のカップ麺。血が繋がっていなくても、同じ食卓を囲み胃袋を満たすことで、彼らは家族になっていく。

しかし、ヒューマノイドは食事を一切必要としない。たまに充電をするだけで、温かいごはんの湯気も、おいしそうに噛む音も共有できない。この映画で描かれるのは、健介が一人で啜る納豆ご飯や、夫婦がラボで食べる味気ないパスタ。一緒にごはんを食べられない以上、どう頑張っても本当の家族にはなりきれないという残酷な事実が立ち上がる。
この「家族になりきれない」という事実が、映画のベクトルをこれまでとは全く違う方向へと向かわせる。是枝作品は長く「いかにして家族になるか(結びつくか)」を描いてきたが、近年は『万引き家族』や『ベイビー・ブローカー』(2022年)で、その関係がほどけていくプロセスにも目を向けてきた。この映画はそこからさらに踏み込み、「どうやって手放すか(親離れ・子離れするか)」という離脱のプロセスそのものを最初から主眼に置いている。
この「結びつき」から「関係の分解」への完全なパラダイムシフトこそが、これまでの是枝作品と一線を画す理由といえるだろう。




















