『箱の中の羊』なぜ賛否両論に? 最後まで解消しないハイブリッドな物語が生んだ温度差

賛否両論『箱の中の羊』を徹底解説

 綾瀬はるかとお笑いコンビ・千鳥の大悟を主演に迎え、亡き息子の姿をしたヒューマノイドと共同生活を始める夫婦の物語を、是枝裕和監督がオリジナル脚本で描いた近未来SF映画が『箱の中の羊』だ。第79回カンヌ国際映画祭で公式上映され、約9分間ものスタンディングオベーションが起きた一方で、海外メディアの星取表では厳しい評価を下された作品でもある。日本での公開に際しても、その評判は賛否両論。ここでは、そんな本作『箱の中の羊』の内容を振り返りつつ、さまざまな論点を整理していきたい。

※本記事では、『箱の中の羊』のストーリーの核心部分に触れています

 物語の主な舞台となるのは、テクノロジーが日常に溶け込んだ近未来の北鎌倉だ。甲本夫妻(綾瀬はるか、大悟)は、不慮の出来事で幼い息子を亡くした喪失感から抜け出せずにいた。そんな二人のもとに、生前の息子の外見や記憶データを精緻に再現した少年型のヒューマノイドが届けられたところから、物語は動き出していく。

 北鎌倉は『晩春』(1949年)や『麦秋』(1951年)など、小津安二郎監督の代表作が撮られた地であり、家族の物語を描くことにおいて意味深いものがある。さらにそれが近未来SFである本作で使われることで、歴史の長い静謐な印象のある風景が、テクノロジーや現代的な建築との異化効果を生み出している。

 主人公・甲本音々(綾瀬はるか)たちの家には、北鎌倉にある実際の建築家の自邸が使われている。そのデザインは、現代的な意匠に木の風合いを合わせているところが特徴。これは、建築家という設定の音々と、木材を扱う工務店を営む2代目の健介(大悟)という夫婦関係や、その亡くなった息子・翔の姿を模したヒューマノイド(桒木里夢)が本作の主要素になっていることをも象徴しているといえる。

 ナチュラルな所作や空気感を生み出す演技指導に定評のある是枝監督は、ここでも大悟や桒木里夢の持つ性質を無理なく引き出しているように感じられる。それだけに、鎌倉の地元の工務店2代目が、大悟本人の岡山弁であることは違和感をおぼえる設定に感じるところではあるが。

 劇中で浮かび上がってくるのは、このヒューマノイドへの対応を通して映し出される、甲本夫妻のそれぞれ異なる子どもへの想いだ。初めからその存在に積極的な愛情を見せるのは、音々の方である。突然子どもを亡くしてしまったという受け入れがたい喪失感を埋めるかのように、彼女はヒューマノイドのなかに翔の面影を見出し、熱烈に可愛がっていく。

 一方、健介の方は対照的に、機械を我が子として扱うことに初めは強い抵抗を感じている。しかし物語が進むにつれ、彼がパチンコをしている最中に息子が命を落としてしまったという過去について、深い自責の念を抱えていることが明かされる。健介の拒絶は、その罪悪感の裏返しであり、彼もまた歪んだかたちでこの人工物の存在に依存していることが分かってくる。

 ここに持ち出されているのが、タイトルともなっている「箱の中の羊」という、サン=テグジュペリの小説『星の王子さま』に登場するモチーフだ。それは、飛行士である“僕”が、砂漠で出会った王子さまから「羊の絵を描いて」とせがまれることで登場する絵のことを指す。“僕”が何度羊を描いても、王子さまは「これは病気だ」、「これは角がある」などとことごとく拒絶してしまう。そこで“僕”が、3つの穴が開いた木箱の絵を描き、「君の望む羊は箱の中にいるよ」と告げると、王子さまは「僕が欲しかったのは、これだよ!」と喜んだという話。

 こうした描写と同様に甲本夫妻は、ヒューマノイドという器の中に、亡き息子の魂……すなわち、目に見えない羊が存在してほしいという願望を投影していたといえる。だが終盤になり、彼らがヒューマノイドに感じていた「息子らしさ」というものは、単に自分たちの願望や態度が相手に反映していただけだったと気づくこととなる。音々がつぶやく「箱の中にいたのは自分」というセリフは、決して深遠なる謎というわけではない。自らの喪失感を癒やすために、子育ての幸福感だけを消費しようとする、ある種の大人の身勝手なエゴと、その限界を突きつけるものなのである。

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