『冬のなんかさ、春のなんかね』は“ふつうの恋愛”を問い直す 今泉力哉の新たな性愛解釈

杉咲花主演ドラマ『冬のなんかさ、春のなんかね』(日本テレビ系/以下、『冬のさ春のね』)がその独特の詩情で話題になっている。監督/脚本は『愛がなんだ』や『街の上で』といった“ダメ恋愛”映画の旗手として知られる今泉力哉。今泉映画の象徴でもある長回しによる会話劇は、連続ドラマである本作においても健在で、ドラマらしからぬその装いには賛否が割れている。
杉咲演じる主人公・土田文菜(つちだあやな)は古着屋でアルバイトをしながら小説家として活動している。偶然コインランドリーで出会った佐伯ゆきお(成田凌)と恋人として交際しながらも、先輩小説家・山田線(内堀太郎)とも2人で会い、学生時代のアルバイト先の先輩・早瀬小太郎(岡山天音)とも関わりは続いている、そんな不誠実ともいえるだらついた人間関係をもつ文菜に対していらだちを覚える視聴者も少なくないようだ。

今泉作品に小説家の主人公が登場するのはこれが初めてのことではない。モト冬樹生誕60年記念で製作された『こっぴどい猫』ではモトが妻の死以来書けなくなった小説家を、『窓辺にて』でも小説を書かなくなったライターの主人公を稲垣吾郎が演じている。一度筆を置いた書き手がさまざまな人間に触れ、自らの感情の揺らぎを感知することで再び書けるようになったり、はたまた書かないままでいたり、今泉映画の書き手は“書けない/書かない”ことに特徴があった。
『冬のさ春のね』の文菜は、悩みながらも書きつづけていることにこれまでの今泉作品からは一線を画する小説家像が見てとれる。いち作家として彼女がメモ帳に書き残す言葉は詩的で、すでに小説のような存在感がある。彼女が実生活で交わす会話や経てきた人間関係がそのまま創作に影響をもたらしてゆく。文菜が最終話までに小説を書きあげることはできるのかもこのドラマも見どころの1つである。

文菜は第1話でメモ帳にこう書きつける。
相手のすべてを知ってしまって 好きでい続けることはできるんだろうか そんなことを考えながら 私はまた人を好きになる 失うことを恐れながら だから私は好きにならない人を好きになる
今泉は恋愛映画というフォーマットを通じて、「好き」という感情とは何かを問いつづけてきた。一般的な恋愛映画が自明のものとして通りすぎてしまう「好き」を再点検し、“ふつうの恋愛”にメスを入れる。恋愛感情にもとづいた一対の人間が結婚し、生殖をする——モノアモリーを前提としたロマンティック・ラブ・イデオロギーからは外れた人間たちが浮気や二股といった関わり合いによってゆるやかな集団を形成してゆく。ENBUゼミナールのワークショップ作品として製作された『サッドティー』は特にそれが顕著な群像劇で、二股をかけている男と古着屋の店員に一目惚れした男の言い争う印象的な場面がある。そこでは前者が後者にこう叫ぶ——「正しい恋愛なんてねえんだよ!」。憧れるべき正解の恋愛を描きがちな恋愛映画というジャンルで、今泉は一見不正解にもみえる“ダメ恋愛”を通じて“正解のなさ”を提示しつづけてきた。『冬のさ春のね』にいらだってしまうのは、この不正解らしい“正解のなさ”に由来するのかもしれない。























