『できても、できなくても』実写化を考える “社会的な痛み”と向き合うために必要なこと

多様性が叫ばれる令和の時代にあっても、“不妊”という言葉はいまだに社会の中で重く響く。医学的には「1年間避妊をせずに性交しても妊娠しない状態」と定義されるが、その響きには「できない」という否定のニュアンスがつきまとう。そこに女性の人生や価値、幸福を結びつけて語る社会のまなざしが根強く残っていることこそ、最も深刻な問題だろう。
そうした現実の中で“不妊”を物語として描くことは、単なる恋愛や家庭のドラマを超え、社会に刻まれた偏見や沈黙を可視化する行為でもある。だからこそ、この題材をどう扱うかは、作品に問われる倫理と誠実さの問題でもある。
宇垣美里主演のドラマ『できても、できなくても』(テレ東系)は、その試みに挑む意欲作だ。コミックシーモアで連載された人気漫画を原作に、不妊をめぐる女性の苦悩と再生を描こうとしている。だが、その誠実な企図の一方で、「不妊を“物語”にすること」そのものの難しさを浮かび上がらせてもいる。
主人公の桃生翠(宇垣美里)は、ブライダルチェックで不妊症を告げられ、婚約者から「子どもを産めない女とは結婚できない」と言われて捨てられる。さらにその事実が職場に広まり、同僚から「女失格」といった言葉を浴びせられる場面は、社会がいまだに「女性=母であるべき」という価値観を内包していることを、翠の孤立は生々しく映し出す。ここまでは、題材の痛みをきちんと描こうとする真摯さが伝わってくる。
しかし、物語が進むにつれ、当初の“社会的な痛み”が恋愛ドラマの枠に吸収されていく。翠が年下の月留真央(山中柔太朗)と出会い、自分の価値を取り戻していく姿には希望があるものの、その“心の再生”が「若い男性との恋」によって支えられることで、“女性の幸福”が再び異性のまなざしに依存してしまう構図が浮かび上がる。社会の偏見に抗う物語が、結果として別の依存関係の中に回収されてしまうのだ。
さらに、翠を追い詰める元同僚・滝沢(樋口日奈)が、翠の元婚約者で日向井建設の跡取り息子(渋谷謙人)と結婚するため、翠との愛人関係を公認する契約結婚を提案する展開は、不妊という現実的な苦悩を恋愛サスペンスの“刺激”として消費してしまっているようにも見える。視聴者の一部から「題材が恋愛ゲームの素材のように扱われている」と指摘が出るのも、このバランスの難しさを物語っている。
宇垣は出演発表時に、「“普通”という呪いから解放され、自分なりの幸せを掴むべく一歩を踏み出す際の背中は、きっと誰かの救いになれるのだと信じています」とコメントしていたが(※)、脚本と演出がそのテーマを支えきれているとは言い難い。翠は終始“受け身”の立場に置かれ、傷つきながらも反論する言葉を持たないまま物語が進む。社会の構造に翻弄される女性を描くならばこそ、彼女が“語ること”の重要性がもっと掘り下げられてよかったのではないか。




















