『べらぼう』一橋治済は本当に“黒幕”だったのか? 悪役として描かれる理由を史実から検証

【史実解説】一橋治済は本当に“黒幕”?

  NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第37回「地獄に京伝」では、松平定信(井上祐貴)の政策が空回りし始めた。恋川春町(岡山天音)が命を落とした事件は、大きな波を起こしたのである。蔦重(横浜流星)の母親譲りの「人たらし術」にも陰りが見え始める。

 やり方は違えど、定信も田沼意次(渡辺謙)も、国や暮らしをよくしようという志は同じである。それは蔦重とて同様。彼らの懸命な姿をあざ笑うかのように、すべてを掌握する男がいる。一橋治済(生田斗真)である。

ドラマの治済像と史実の乖離

 一橋治済は、本当に“黒幕”と呼ばれるような存在だったのだろうか——。

 テレビドラマが描く治済像と、実際の史実との間には、ときに深い隔たりがある。近年のドラマでは、田沼意次(渡辺謙)や松平定信が時代の表舞台で政治の実権を振るった陰で、一橋治済が「すべてを操る黒幕」として描かれる場面が増えている。

 治済は将軍にはならなかったが、そのふるまいはときに、あたかも将軍すらも手玉に取る者のようにも映る。自らの子を将軍に就け、御三家・御三卿の血筋までも支配下に置いた。治済が江戸幕府の権力図を塗り替えたのだ。

 彼に訪れた数々の偶然を“運”と呼ぶべきか、それとも周到な策略の果てだったのか。果たして治済は、本当に歴史を動かした黒幕だったのか。

 ドラマでの描写をそのまま事実と受け取るのは、やはり危うい。治済が本当に黒幕と呼べる行動をどこまでおこなったのか? どのあたりからが後世の創作やドラマ上の脚色なのか?

 治済自身は将軍となっていないため、彼に関する資料は乏しいが、嫡子の家斉(城桧吏)は11代将軍として多くの逸話を持つ。家斉について伝わる史実を中心に彼ら親子の時代についてたどっていきたい。

将軍継嗣問題への介入

 治済が黒幕視される第一の理由は、将軍継嗣問題に深く関わり、長男・家斉を11代将軍に押し上げたことにある。将軍に嫡子がいない場合、通常は御三卿の筆頭である田安家から次の将軍が選ばれる。しかし、第10代将軍・家治(眞島秀和)の後継が途絶えた際、田安家は明屋形(当主不在)の状態だった。 

 田安家当主の治察(入江甚儀)が若くして世を去ったため、弟の定信は白河松平家への養子縁組の撤回を望むが認められなかった。そのために当主不在となったのである。定信の養子縁組については、田沼意次と治済の二人が進めたと考えられている。

  田沼の場合は私利のためではなく、幕府の財政圧迫を避けるため、御三卿すべてを抱える必要はないと判断したのだろう。

 一方、治済はもっと個人的な利によって定信を排除したと考えられる。御三卿筆頭の田安家は一橋家にとっては目の上のたんこぶ。田安家に当主が不在の場合、一橋家から将軍後継者が出る可能性が高まるからである。

 とはいえ、この養子縁組については、田沼や治済が仕組んだというより、白河松平家の強い希望を受けてのことだと伝わる。

史実と創作

 ドラマの中で治済の仕業とされている出来事のほとんどは、創作であると考えられる。

・第10代将軍家治・嫡子家基(奥智哉)・松平武元(石坂浩二)の殺害(毒殺)
・平賀源内(安田顕)を陥れて獄死させた
・佐野政言(矢本悠馬)に田沼意知(宮沢氷魚)を殺害させた

 治済黒幕説の元となったのは、、のちに流布した以下のような伝承であると考えられる。

「第11代将軍・家斉は、第10代将軍の嫡男・家基の命日に墓参を欠かさなかった――家基の祟りを恐れていた」

 つまり、家斉が「父・治済が自分を将軍にするため家基を殺した」と信じていたという説である。だがこの話、史料的な信ぴょう性は薄い。もとになったのは正式な史書ではなく、将軍家の逸話をまとめた読み物に過ぎないといわれる。家基怪死の「黒幕=治済」説は、創作好きな後世の人々が創りあげた”物語”に近い。 

 しかし、治済が田安家だけでなく、自らの権勢を阻む者を冷静に排除し続けたのは、ほぼ間違いない。表向きは協調的に振る舞っていたが、第10代将軍家治の死後には田沼派を幕内から一掃したとされる。また、倹約と規律を重んじる定信の「寛政の改革」は、浪費癖のある治済にとっては目障りなだけだっただろう。結局、治済は定信とも決別し、たった6年で老中を罷免してしまうのだ。

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