『べらぼう』生田斗真演じる一橋治済は“敗北”するのか “悪行”の整理と最期を考察

「また出た」「今度は何を企んでいる」。一橋治済(生田斗真)が画面に登場するたび、視聴者からこんな声が上がる。NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』で治済は完全に“不穏の象徴”として定着した。焼き芋を頬張りながら陰謀を巡らせ、満面の笑みで邪魔者を排除していく。その姿は、もはや裏の主役と言っても過言ではない。本稿では、劇中で描かれた治済の“悪行”を整理しつつ、史実における最期と、ドラマでどのような結末を迎えるのかを考察してみたい。
まず平賀源内(安田顕)の失脚である。源内は将軍世子・徳川家基(奥智哉)の急死について調査していたが、「人を斬った」という罪を着せられ獄死に追い込まれた。源内を陥れたのは「丈右衛門(矢野聖人)」と名乗る男だったが、後にこの男が治済の手先として動いていたことが示唆されている。源内が書き残そうとした真相は、治済の命令で焼却されたのである。
次に田沼家への工作だ。劇中では、田沼家の内部情報が敵対勢力に筒抜けになっている描写が繰り返されてきた。佐野政言(矢本悠馬)に系図の件を吹き込んだのも「丈右衛門だった男」だったが、なぜ彼が田沼家の内情を知っていたのか。そこには内通者の存在も疑われる。
そして極めつけが、田沼意知(宮沢氷魚)の殿中刃傷事件への関与である。佐野政言の恨みを煽り、凶行へと駆り立てたのは「丈右衛門だった男」だった。政言が鷹狩りで失態を演じた際、意知が獲物を隠したという嘘を吹き込み、さらに桜の一件で追い打ちをかける。これらすべてが、治済の指示によるものだとすれば、意知の死は完全に仕組まれた政治的暗殺だったことになる。
思い返せば治済は、第2回の初登場時に田沼意次(渡辺謙)と浄瑠璃人形の余興を披露。その腕前について褒められると「そうか! ではいっそ傀儡師にでもなるか」と返答していたが……。中盤以降、その黒幕性は加速度的に増してきている。

では、史実の一橋治済はどのような最期を迎えたのか。結論から言えば、彼は断罪されることなく、権力を保ったまま天寿を全うしている。治済は息子・家斉を11代将軍に据えることに成功し、「将軍の実父」として幕政に君臨した。田沼意次を失脚させ、松平定信を老中に据えたのも治済の意向だったが、その定信が「大御所」尊号授与に反対すると、今度は定信を辞任に追い込んだ。まさに人事を自在に操る“怪物”だったのである。
文政10年(1827年)、治済は77歳で死去する。死後も内大臣、太政大臣といった最高位が追贈された。つまり治済は、記録だけを読み解けば最後まで勝者として君臨し続けたのだ。田沼意次のような失脚も、松平定信のような挫折も経験することなく、「天下の楽に先んじて楽しむ」豪奢な生活を送り続けた。これが歴史の現実である。
『べらぼう』における治済の結末は、大きく2つのシナリオが考えられる。ひとつは史実に忠実に、治済が最後まで権力を保持する展開だ。田沼意次は失脚し、松平定信も辞任に追い込まれる。蔦重(横浜流星)たち庶民は寛政の改革による出版統制に苦しめられるが、その背後で糸を引く治済は決して表舞台に出ることなく、安泰な晩年を送る。これは現実的であり、歴史ドラマとしては誠実な描き方とも言える。
しかし、それでは視聴者の感情が収まらないだろう。散々悪事を働いた人物が、何の報いも受けずに終わるのか。そんな不満が噴出することは想像に難くない。





















