『鬼滅の刃 無限城編』で童磨が放つ抗えない魅力 宮野真守が完成させた“イミテーション”

『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』は、公開直後から国内興行の記録を次々塗り替え、8月初旬の時点で累計興収は170億円台後半に到達。日本歴代興収トップ10圏に食い込んだ。中でも特筆すべきは、公開8日間での100億円突破という“日本映画史上最速”記録。コロナ禍の異例の大ヒットだった『無限列車編』が打ち立てた初動記録を更新し、夏休み興行の牽引役として話題性を独占した。海外では8月以降アジアから順次公開が始まるため、海外興収や評価も気になるところだ。

「柱稽古編」のラストで鬼殺隊最強の剣士や柱たちは、突如として出現した無限城へと引きずり込まれてしまった。本作で竈門炭治郎らは散り散りになり、各所で上弦の鬼との死闘が始まる。猗窩座と冨岡義勇・炭治郎の激突、我妻善逸と獪岳の兄弟弟子の戦いなど本作の見どころは多いが、中でも注目したいのが上弦の弐・童磨と胡蝶しのぶの死闘である。彼女との戦いにみる童磨のキャラクター性に惹き込まれて仕方ないのだ。
イミテーションでしかない童磨の“感情”
本作における上弦の弐・童磨という存在は、単なる悪役に収まらない。彼自身が典型的な悪意を持ち合わせていないからだ。童磨は、人間時代から白橡色の髪、虹色がかった瞳といった類い稀な外見と高い知性を持ち、「神の声を聞く特別な子」として宗教団体「極楽教」(後の“万世極楽教”)の教祖夫妻に祭り上げられて育った。信者や両親は、彼を崇拝の対象としたが、童磨自身にはその“神性”を感じる能力は皆無であり、むしろその虚構を“演じていた”だけだったことが明かされる。
のちに色狂いの父親がさまざまな信者の女性と関係を持ったことで、母親が混乱の末に彼を刺殺し、続いて自殺するという凄惨な事件に発展するも童磨は「部屋の汚れ」や「換気の必要性」のことしか感じず、悲しみや怒りを一切抱かなかった。普段から自分を崇めにくる信者に“同情”こそしても、共感や理解はできない。しかし、その“ポーズ”ならできる。そういった過去のエピソードからも、童磨の感情が欠如していることは理解するに容易い。彼は空っぽで、典型的な悪役が持つような感情的な動機や力を求めるような私欲などもなく、本当に“何もない”。それがこの童磨というキャラクターを不気味たらしめる大きな要因なのだ。

一方で、猗窩座が女性を絶対に喰わないことに対し童磨はむしろ女性を喰らうことを一興としている。子を産むことができる女性の体は男性に比べ栄養価が高い、というのが童磨の持論だが、そんなところから男性に比べ女性に対して一定の執着があることは見て取れる。それがもし無意識に、多くの女性を“食い物”にしてきた色狂いの父の影響を受けているのだとしたら、それこそおそらく彼にとって唯一“人間味”を感じることができる要素かもしれない。
「不老不死になって苦しむ人々を永遠に“救う”」。つまり、“信者を食べて自身に吸収し、一体になることで彼らを救済する”という歪んだ救済思想を持つ童磨。表面上は慈悲深く振る舞う一方で、その内側は厳しい現実に耐えられず藁にも、宗教にもすがる信者を“生贄”と見なす冷酷さが恐ろしい。そして、その一見無垢で優しい口調や物腰は、胡蝶しのぶにも向けられる。
しのぶの姉・カナエを殺した張本人であり、さらにしのぶ本人に対しても甘い言葉で称賛と慰撫を装いながら、実際は彼女を“弱きもの”としてしか見ずに冷笑を重ねる童磨。感情が欠如していて虚無である彼に対し、しのぶは姉への仇に対する“怒り”という感情を燃料に戦う。その感情における温度差、コントラストが互いのキャラクター性をより際立たせ、彼女の戦いや物語に力強さを持たせていた。




















