『鬼滅の刃 無限城編』が突きつけた“悪”への誘惑 猗窩座の物語に惹かれるのはなぜか?

あの煉獄杏寿郎の命を奪い、日本中を絶望に陥れた猗窩座が5年ぶりにスクリーンに帰ってきた。『劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』は驚くべきスピードで興行収入を伸ばしており、映画としては前作にあたる『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の記録を抜くことも期待されている。本作では童磨としのぶ、獪岳と善逸、猗窩座と炭治郎・義勇コンビの闘いが描かれるが、なかでもタイトルにも登場する“猗窩座”の存在感は群を抜いている。上弦の参という圧倒的な敵でありながらも、わたしたちは猗窩座という“悪役”にどうしても惹き寄せられてしまう。いったいなにが猗窩座をここまで魅力的にみせるのだろうか。
『猗窩座再来』で描かれた狛治の悲劇

『無限列車編』で炎柱・煉獄杏寿郎をなれなれしく名前で呼び、「お前も鬼にならないか」との誘いを断られたがゆえに彼を殺害するに至った猗窩座は、『無限城編 第一章』でもその強さを存分に発揮した。今回の映画では有機的に変容する無限城を舞台に上弦の鬼と鬼殺隊がぶつかり合う。上弦の弍・童磨と蟲柱・胡蝶しのぶの激闘、かつての同門である上弦の陸・獪岳と我妻善逸の因縁の闘い、そして上弦の参・猗窩座が水柱・冨岡義勇と竈門炭治郎との戦闘のすえ死亡するところまでが描かれる。
猗窩座は戦闘のなかで「杏寿郎はあの夜死んでよかった」と言い炭治郎を怒らせるが、彼に対して猛烈な嫌悪感を抱きつづけてもいた。義勇は痣を発現しいわゆる“ゾーン”へと突入、炭治郎はみずからの過去へと回帰し父が言及していた「透き通る世界」に到達。戦闘能力が格段に上がったふたりによって猗窩座は首を斬り落とされるのだが、彼の身体は崩壊することなく、首を失ったまま動きはじめた。しかし拳ひとつでも闘おうとする炭治郎の姿によって、猗窩座は人間時代の狛治であったころの記憶を取り戻す。

狛治は貧乏な家に生まれ、病床に臥す父親の薬代を捻出すべく盗みをはたらいていた(捕まるたびに腕に彫られた刺青は、猗窩座となったのちの全身にも表れている)。もとはといえば父のために始めた盗みであったが、その悪行の原因が自分にあることを悲観した父は首を吊って死んでしまう。
その後、狛治は素流という流派の道場主・慶蔵に引き取られ、娘の恋雪の看病を頼まれる。恋雪はひどく病弱でずっと床に臥せっているほどだった。狛治と恋雪は看病のなかで愛情をはぐくみ、ふたりは結婚することになる。このプロポーズのとき狛治は「俺は誰よりも強くなって、一生あなたを守ります」と言っており、これはのちの猗窩座の行動原理ともなる。

素流の道場継承権を譲り受けた狛治は他の道場の門下生らから妬みを買い、彼らは井戸に毒を混入させることで殺害を図った。ちょうど狛治が父の墓参りに出ていたときに起こったその事件によって慶蔵と恋雪は命を落とす。復讐に駆られた狛治は門下生たちを素手で惨殺。父を自死で、婚約相手と師匠を毒殺によって失い絶望するかれの前に現れたのが鬼舞辻無惨だった。大切な人を守れなかった弱き彼は強さの象徴でもある鬼となることを選択し、猗窩座となったのだ。猗窩座は愛する者たちを思い出すことによって、滅するべきは弱い自分自身であると気づき、みずからの身体を攻撃し自滅する。狛治としての自我を取り戻し、猗窩座/狛治の一生は幕を閉じた。
猗窩座の心の“悪”の正体とは?

このように強さに執着し人間を弱き者として見下す、人間のなかで強いものは鬼に誘いいれるなどといった猗窩座の行動原理や思考の癖、あるいは彼をそのような鬼へと追いやった復讐の過去はエーリッヒ・フロムが『悪について』で語った“悪”の文脈に沿っているように思われる。
エーリッヒ・フロムは、ドイツの精神分析学者、哲学者である。代表作である『愛するということ』は日本でもベストセラーとなっており、2020年にも改訳が出版されている。この本はタイトル通り“愛”について論じるものだが、これと対をなすように“悪”について書かれたのが、今回用いる『悪について』である。2018年にちくま学芸文庫より新訳が出版されており、現在は手に取りやすい状況にある。

狛治が猗窩座となる決定打は、慶蔵と恋雪の毒殺に対しての残酷な復讐だった。この狛治による復讐は、フロムが分類する暴力のひとつである“復讐の暴力”そのものだ。復讐の暴力がなされるとき、人はすでに害をこうむっているためこの暴力に身を守る作用はない。狛治が嫉妬心から慶蔵と恋雪を毒殺した道場の門下生を惨殺したとき、彼はすでに愛する者を失うという害をこうむっており、彼自身が身を守る必要はなかった。そのうえ彼は父の薬代のために仕方なく繰り返していた盗みへの罪悪感に耐えられなくなった父を自死で失っている。すべての愛する者を失った彼には守るべき対象がなかったのだ。狛治による門下生の殺害は、まさしくフロムのいう復讐の暴力そのものであるだろう。

ではなぜ、人は復讐へと駆られるのだろうか。フロムによると復讐には、自尊心やアイデンティティの崩壊を防ぐ働きがある。繰り返される「自分は何もできなかった」「大切な人を守れなかった」という狛治の無力感と自尊心の欠落は、復讐によってでしか回復されえなかったのだろう。




















