クラーク・ケントが現実世界にいる! 『スーパーマン』を唯一無二の傑作にした実在感

『スーパーマン』を観た。とんでもなく面白かった。その上クラーク・ケント(デヴィッド・コレンスウェット)という男が本当に”いる”と思えた。
具体的に言うと、小学校の教室、俺の斜め後ろの席。振り返るとそこにクラーク・ケントという少年がいた気がする。蓋の内側に時間割を貼り付けるタイプの筆箱を持っていて、シャーペンは禁止されていたから律儀に鉛筆だけ揃えていた。でも一度だけロケット鉛筆を持ってきたことがあって「お母さんが買ってくれたんだ」とはにかんだ笑顔を見せた。休み時間は消しゴム落としとバトエンで盛り上がったし、一緒にねりけしのデカさを競っていた。そんな男がスーパーマンをやっている。そういう実在感だ。

これは別に冗談で言っているわけではない。恐らく『スーパーマン』を観た人の中にそれぞれの「クラーク・ケントがいた」という実感があると思う。クラスメイトであったり、隣人であったり、同僚であったり。それぞれがクラーク・ケントという男の温度を感じたはずだ。この実在感こそ『スーパーマン』を唯一無二の傑作にしている。
偶然か意図的か、少なくともDCにおいてヒーロー映画は実在感の時代に突入したようだ。はじめてヒーローが”いる”と感じられたのは『THE BATMAN-ザ・バットマン-』(2022年)である。DCユニバースには組み込まれていない『THE BATMAN-ザ・バットマン-』だが、事件現場で検視官がちょっとどいてほしそうにしているとスッとよけてくれる。その仕草にバットマンの実在性を感じた。その中にいるブルース・ウェイン(ロバート・パティンソン)という青年を。そして思った。「このバットマンは中華料理屋で一緒に飯を食っている時、頼んだら卓上調味料の醤油をとってくれるぞ」と。また、ヒーロー活動自体も常に徒歩でやってくるそのスタイルは、まさに文字通り地に足がついていた。

この実在性アメコミ映画の面白いところは、世界観自体はそれほど現実的でないことだ。『THE BATMAN-ザ・バットマン-』でブルース・ウェインが活動するゴッサ・ムシティは過度に陰鬱で耽美的な雰囲気を強めた魔都で、スマホのある1930年代としか言いようがない。現実から飛躍しているほどではないが、確かにフィクションの世界だ。そのような世界においてブルース・ウェインは確かに存在し、戦っている。実在感がすごいからこそバットマンの抱く怒りと哀しみが生々しく、実在感がすごいからこそ彼の行動がやがて希望の灯火となる。
このスタイルは『スーパーマン』でも変わりはない。当たり前のようにメタヒューマンがいる世界で、街の上ではミスター・テリフィック(エディ・ガテギ)の空飛ぶ円盤が飛んでいる。この世界を現実と地続きと呼ぶことはできない。その一方で、内在する問題は確かに現実と地続きのものだ。我々の世界が侵攻と虐殺、分断と排外主義の渦中にいるように、DCユニバースも混沌の中にある。

その世界にスーパーマンがいる。猛スピードで空を駆け、とんでもない力で瓦礫を押し上げる。軍事侵攻を止め、怪獣の顎を殴り、リスを助ける。スーパーマンは確かに圧倒的な力の持ち主だ。彼はその力を常に命を守るために行使する。久しぶりに光を見た。眩いばかりの善性を。ジェームズ・ガン監督は奇を衒うことなく直球の正義をスパンと叩きつけてくれた。この時代に、改めて「命は大切である」と。
だが、映画が終わり、現実に目を向けてみると世界はなにも変わってない。この世界にスーパーマンはいない。時々、いい方向へは一歩ずつ向かうしかないが、悪い方向へはあっという間に転がってしまうように思える。実際には悪い方向へも案外一歩ずつ進んでいるのだが(本当に勘弁してほしい)ともあれ正しい方向へは必ずいい結果になると信じて一歩ずつ進むしかない。そのことを体現してくれるのがデイリー・プラネットの記者であり、クラーク・ケントの恋人、ロイス・レイン(レイチェル・ブロズナハン)だ。大勢の命を救ったのはスーパーマンだが、本作の事件を収束できたのはロイス・レインの力があってこそ。彼女は『スーパーマン』という作品が体現する理想になくてはならない存在である。




















