映画館でいま体感したい長岡花火 「空襲を思い出す……」それでも花火を上げ続けた理由

2025年、日本は終戦から80年という大きな節目を迎える。その歳月は、一つの時代をすっぽりと覆うほどに長い。1945年から時計の針を80年戻せば、そこはまだ江戸時代なのだ。戦争の記憶が遠くなるのは、ある意味で自然なことかもしれない。
しかし、その記憶を風化させないために人々は様々な工夫をこの80年間、行ってきた。長岡市の花火大会もその一つに数えられるだろう。

新潟県長岡市の「長岡まつり大花火大会」の歴史は古い。戦前から続くこの大会は、戦後は空襲の慰霊と平和への祈りとして、平成からは大地震からの復興の象徴としての役割を担ってきた歴史を持つ。
そんな背景を知ることで、この花火大会をいっそう深く楽しむことができるようになると思う。本稿では、そんな長岡花火の歴史を振り返ってみたい。
恐ろしい空襲を思い出す…… それでも長岡が花火を上げ続けた理由

長岡花火は、同地の遊郭によって明治時代に始まったとされている。明治から大正、昭和と続けられ、その規模を拡大していった長岡花火大会だが、昭和13年(1938年)、日中戦争の激化により花火大会は中止に追い込まれることとなる。
そして、昭和16年(1941年)から20年(1945年)にかけて勃発した太平洋戦争の末期において、長岡市は大規模な空襲の被害に遭い、街の8割が焦土と化し、1500名近い命が失われたという。
この長岡空襲が、現在の長岡花火に大きな影響を与えている。空襲の翌年には、長岡復興祭が開催され、その翌年に長岡花火も復活。空襲のあった8月1日を「戦災殉難者の慰霊」の日とし、2・3日が「花火大会の日」と制定され、それ以来、長岡花火大会は曜日に関係なく、8月2日と3日に開催され続けている。1日には、空襲のあった時刻に合わせて慰霊の花火の打ち上げも行っている。

長岡の花火は美しく楽しいものだが、この地域が経験した悲劇も背負っている。慰霊のための花火という側面が長岡の花火を特別なものにしていると言える。
そうした長岡花火の慰霊という側面は、故・大林宣彦監督によって映画化されている。2012年公開の『この空の花 長岡花火物語』の製作動機として、大林監督は自著『戦争などいらない‐未来を紡ぐ映画を』(平凡社刊)の中で、森民夫長岡市長(当時)の以下の言葉を紹介している。
「空襲で両親を亡くしたり、背中の赤ん坊を失ったりした人は、未だに怖くて長岡の花火を見ることができません。じゃあ、なぜそんな怖い花火を上げるかというと、私たちは忘れたい、思い出したくない、なかったことにしたい、でも、それを次に生きる子どもたちに伝えないと、また同じ過ちを犯してしまう。だから、私たちは一番忘れたいことをしっかりと心にとどめておくように、毎年、同じ日、同じ時間に花火を上げるんです」

恐ろしい体験を思い出したくないという人は、当然いる。しかし、だからこそ忘れてはいけないことがある。長岡の花火はそのために打ち上げられている。その“忘れない”という決意は、現代の作り手にも脈々と受け継がれている。2025年、長岡花火のライブビューイングの演出を担当する坂上明和監督は筆者のインタビューで、長岡は平和教育が盛んな土地で、花火大会がその平和教育を行う土壌を支えているのだと思うと語っていた(※)。毎年のように空襲に思いをはせる機会があるということが、長岡を平和を愛する街にしているのだろう。長岡市民は、80年という長い期間を、戦争体験を花火とともに語り継いできたのだ。




















