ライアン・クーグラー監督の最高到達点 “紛れもない傑作”『罪人たち』を徹底考察

“紛れもない傑作”『罪人たち』を徹底解説

 批評家、観客から高い評価を得ているだけでなく、ここ10年間でオリジナル作品として最大のヒットを成し遂げ話題となっている『罪人たち』(2025年)。『クリード チャンプを継ぐ男』(2015年)、『ブラックパンサー』(2018年)を成功させたライアン・クーグラー監督、マイケル・B・ジョーダンが、またしても大きな山を征服したといえる一作が、ついに日本公開された。

 その内容は1930年代ミシシッピの黒人コミュニティを舞台にした、吸血鬼ホラーだ。ハリウッドに大きな足音を残しているクーグラー監督のステップとしては意外に思える、ジャンル映画への挑戦である。そんな本作『罪人たち』は、いったい何を描いたのかを、ここではじっくりと考察していきたい。

※本記事には、映画『罪人たち』のストーリー展開を明かす記述があります

 物語は、双子の兄弟スモークとスタック(マイケル・B・ジョーダンによる2役)が、シカゴでのギャング稼業で大金を手にし、故郷のミシシッピ州南部、デルタ地域の町クラークスデールに帰還することで動き出す。彼らは一攫千金の夢を実現するべく、当時禁じられていた、酒を振る舞い音楽を演奏するバー、ダンスホールを経営しようとするのだ。二人はそのために土地の白人から土地と建物を一括購入し、ミュージシャンや用心棒、サプライヤー(供給業者)やコックや給仕など、運営するためのクルーを集めていく。

 その面々は、さまざまな才能を持ちながらも綿花畑での過酷な集団労働に従事することを余儀なくされている労働者だったり、路傍やバーで日銭を稼ぐ者だったりする。興味深いのは、そのなかに食料雑貨店を経営する中国系の夫妻もいるということ。これは、クーグラー監督の義父のルーツが中国系にもあることから設定されたという。ミシシッピ・デルタ地域では中国系の雑貨店が当時繁盛していたことから、中国系のコミュニティが形成されているのだという。(※1)

 綿花畑の労働者であり、ブルースシンガーでギターの名手である青年サミー(マイルズ・ケイトン)もまた、兄弟に集められた一人だ。しかし、サミーは牧師の息子でもある。教会では悪徳だとみなされていた酒場で演奏することや、当時、黒人教会における神への音楽であるゴスペルに対して、宗教的な面で忌避されていたブルースを歌い弾くことには、父親から強く反対されていた。そんなサミーが、本作の物語のキーパーソンとなるのだ。

 IMAX 70mmフィルムカメラとウルトラパナビジョンカメラを駆使して映し出される壮大な映像には、思わず息を呑む。本作の撮影はルイジアナ州でおこなわれているというが、舞台とされるミシシッピ・デルタとは地理的にも歴史的にも連続していて、綿花畑、湿地、そして音楽と信仰が交錯する南部特有の世界観が映し出されていく。

 広大な綿花畑が広がる肥沃な土地は、経済的な豊かさの象徴ではあるが、それは黒人奴隷時代、そして奴隷解放宣言の後も、黒人労働者の搾取によって支えられていたというのは、歴史に刻まれている有名な話だ。この地域など、アメリカ南部の貧困地帯で生まれた魂の叫びともいえる音楽「ブルース」は、豊かな大地と黒人たちの飢えた心の狭間で育まれたものだといえる。(※2)

 本作は、綿花畑沿いの道路で労働をしている囚人たちにも、あたたかいまなざしを注いでいる。ドキュメンタリー映画『13th -憲法修正第13条-』(2016年)で紹介されていたように、歴史的にアメリカの黒人は、軽犯罪で収監され、強制労働に従事させられることになる場合が多いというのである。“それは実質的に、「かたちを変えた奴隷制」なのではないか”というのが、ドキュメンタリーの趣旨だった。

 そうでなくとも、とくにアメリカ南部では奴隷解放後も黒人の職業が実質的に制限され、結局は黒人奴隷時代と同じく綿花畑で労働するしかない黒人が多かったのである。ここでは「奴隷解放」とは建前で、多くの人々が苦しい日々のなかにいたことを、本作は描いているのだ。

 双子の兄弟のダンスホールは、そんな人々の日々の苦痛を癒すものだ。店がオープンした夜には、この地域のさまざまな黒人たちが集まって、盛況となる。客のなかには、双子の弟スタックの元恋人メアリー(ヘイリー・スタインフェルド)もいた。フィリピン系とユダヤ系を両親に持つヘイリー・スタインフェルド自身は、ここでは黒人と白人にルーツを持つ人物として設定されている。

 アメリカでは、このようにさまざまな民族にルーツを持つ市民が多くいるわけだが、偏見や差別渦巻く当時の環境において、彼女の立場は微妙なところにある。1920年代のニューヨークを舞台に、こういった立場にあった人々を描いた映画『PASSING 白い黒人』(2021年)では、肌の色が薄い主人公が、差別的な環境のなかで白人の文化圏にアクセスする姿が映し出される。同時に彼女は、黒人のコミュニティにも受け入れられる。ある人々は、コミュニティへの「パス」が可能という“特権性”を持っていたのだ。そしてそれが、本作では悲劇を生むことにもなる。

 『PASSING 白い黒人』で描かれたように、メアリーのような人物は、ある局面では、どちらのコミュニティからも排斥される可能性がある立場でもある。本作においても彼女は、白人に見えることから、ダンスホールから出ていくように要求されてしまうのである。

 この店には、白人からの搾取や差別に耐え忍び、ひとときの憩いや解放を求めて、黒人の客が集まっているのだ。そういう意味では、彼女が敬遠されるのは無理からぬところもあるかもしれない。だが、どこにも安住して身を置くことができないメアリー個人の立場もまた苦しいものだ。そこに触れていることで、本作は人種差別や偏見を重層的に、複雑に描いているといえよう。

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