坂元裕二はなぜ“落下”を描き続けるのか 『片思い世界』まで綿々と続くモチーフを分析

坂元裕二は“落下”をなぜ描き続けるのか

坂元裕二が反復する「(落ちる)水分の共有」の意味

 ここで重要なのは、『花束みたいな恋をした』のこの場面が象徴的なように、落ちてゆく水分を誰かと共有することだ。この作品の2人は雨の振り続けるなか共に濡れつつ麦の家へと向かい関係を深めてゆく。涙を共有することによって唯一無二の絆を獲得してゆく。「落下する水分」はそれを誰かと共有するとき、ネガティブなシンボルからむしろポジティブなそれへと変貌する。

 『大豆田とわ子と三人の元夫』も同じ物語だった。とわ子は友人の結婚式でスピーチをしようとした矢先に、それまでの「歴史」(要するに離婚歴だ)からそれが中止になったことを告げられる。すると屋外会場には大雨が降り出すのだが、参加者の多くが室内へと移動するなか、彼女は何より大切な一人娘とそこに残り続け、2人で雨の落下を一心に共有し続けていた。その共有が2人の関係の代替不可能な親密さを表しているように思えてならない。

 映画『怪物』(2023年)もそうだった。『怪物』の小学生2人も、1人がもう1人の監禁されている風呂場へと救出に行くシーンからラストの大雨の場面に至るまでひたすらに甚大な量の水分を共有し続ける。これは水を共に浴びたことへの甘美なまでの肯定の映画なのだ。水が落ちること、社会的に迫害されることは、『カルテット』の高橋一生が言ったように「二度と元には戻らない」ほど痛切な体験として人を苦しめる。しかし同時にまた“誰かとともに”水を浴びることは、徹頭徹尾一度きりの、こちらも後戻りの効かない経験でもあるのだ。この不条理な世界にあってそれだけが、その共有の痕跡だけが、豊かな、人を生かしてゆく支えになると繰り返し坂元裕二はドラマのなかで説いてきた。『東京ラブストーリー』で坂元はこう書いていた。

恋愛はさ、参加することに意味があるんだから。たとえダメだったとしてもさ。人が、人を好きになった瞬間って、ずっとずーっと残っていくものだよ。それだけが、生きてく勇気になる。暗い夜道を照らす懐中電灯になるよ。(『東京ラブストーリー』より)

 坂元のドラマを、恋愛ドラマと言ってよいのか迷ってしまう。むしろ正確に言うなら、水分を共有することによって他者とより深い関係性へと変化してゆくドラマというべきかもしれない。『カルテット』の4人がレモンの汁を共有していたように。『大豆田とわ子と三人の元夫』の親子が雨に打たれたように。そしてこの水の共有の記憶は人がひとりで「生きてく勇気になる」。

『花束みたいな恋をした』©2021「花束みたいな恋をした」製作委員会

 『花束みたいな恋をした』のラストを思い出そう。長い交際の末に破局した麦と絹だったが、物語の序盤で麦に濡れた髪の毛を乾かしてもらっていた絹は、しかし最後に1人で髪の毛を乾かすようになる。誰かと共に水を共有したことの記憶は、最終的に人が1人でも生きていけるようになるための、力強い肯定をもたらすのではないだろうか。

 『片思い世界』のラストの名場面は、こうした坂元のこれまでのモチーフを最大限活かしたものとなっている。ヒロインの美咲と典真(横浜流星)はすでに別の世界に住んでいる。2人が結ばれることは絶対にない。坂元のシナリオでは、典真が音楽室で涙を流すとき、かたわらにいながらも美咲がそれに触れることができないことを示して共有の不可能性という現実的な描写を行った。典真には美咲が見えない。だが映画版の演出はそれに続けて、2人がともに涙を流しながら互いを思い、相手を抱きしめる場面を付け加えた。2人が違う世界線にいる以上、特に典真にとっては相手をしかと抱きしめられたのか確証することはできない。だが抱きしめ合うことに成功し、涙を共に流し合っているさまを確認できる第三者であるわれわれ観客は、ここに完璧な落下する水分の共有が行われていることを確認する。『カルテット』や『花束みたいな恋をした』で坂元脚本を理解しつくした土井裕泰監督の、きわめて重要な演出だ。演出と脚本の力が見事に重なり、ここに大傑作が生まれた。

■公開情報
『片思い世界』
全国公開中
出演:広瀬すず、杉咲花、清原果耶、横浜流星、小野花梨、伊島空、moonriders、田口トモロヲ、西田尚美
脚本:坂元裕二
監督:土井裕泰
配給:東京テアトル、リトルモア
©︎2025『片思い世界』製作委員会
公式サイト:kataomoisekai.jp
公式X(旧Twitter):@kataomoi_sekai

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