江戸時代の武士の多くは借金苦? 『べらぼう』でも話題「旗本」の実態を解説

大出世しても親の力があっても嫉妬される武士の世界
ここまでは300石以下の小身旗本について述べたが、もちろん大勢の家臣を従えて暮らす3000石以上の大身旗本もいた。さらに出世して大名になることもあった。
田沼意次は旗本だったが、老中に出世すると同時に大名となった。田沼の父・意行は、紀州藩の足軽だったが、8代将軍吉宗について江戸に来て幕臣(小身旗本)となった。田沼が「白まゆ毛」こと松平武元(石坂浩二)から「足軽あがり」とバカにされるのはそのせいである。
足軽とは戦闘時の歩兵で、士分(武士)とは認められていなかった。そこから親子2代で老中・大名にまで登り詰めたのだから、古参の家臣からの嫉妬がすさまじかったのだ。
とはいえ、親が立派でも七光りと嫉妬されることも、長谷川平蔵宣以(中村隼人)の口から語られた。どう転んでも目立てば嫉妬されるものなのである。
旗本は自由のない転勤族?
有名な旗本には、名奉行として名高い大岡忠相(大岡越前:3920石、のち大名)や遠山景元(遠山金四郎:500石)、儒学者の新井白石(1000石)、前述の長谷川宣以(鬼平:400石)などがいる。
旗本や御家人は、幕府から下賜された屋敷に住んだ。所有権はない上に、好きな場所に住めるわけではなかった。その点、町人の方がよほど自由だったといえる。
御家人屋敷は与力や同心、徒組(かちぐみ)など同じ役職の武士が集まって住んだ。
旗本屋敷は禄高のランクで広さが決まっており、1692年の記録によれば
8000石以上…2,300坪
5000石以上…1,800坪
3000石以上…1,500坪
1000石未満…500坪以下となっている(目安)。同じ旗本でもかなり待遇が違ったのだ。
旗本は基本的には江戸詰めであるが、遠国奉行などで遠方へ任ぜられることもあった。また、江戸においても頻繁に屋敷替を命ぜられ、同じランク内で転居を繰り返した。長谷川平蔵(鬼平)の住んだ屋敷には、晩年の遠山金四郎が住んだという。
謀叛を恐れた幕府
旗本の自由がないのは住む場所だけではない。旅行や外泊をする際には、届を出して上司の許可をもらう必要があった。常にどこにいるかを明らかにしておく必要があったのだ。また、よほど近しい親戚関係でない限り、旗本同士の交際も制限されていたという。
江戸幕府は、江戸城を親類の「親藩」や古参の家臣「譜代」で固めることで将軍家を守った。いつ謀叛を起こすとも限らない「外様」は遠くへと追いやられたのだ。
幕府は常に外様大名による謀叛を警戒していた。譜代の家臣で構成された旗本は、何か事が起きればすぐに動けるように準備しておく必要があったのである。また、旗本自身をも監視する意図があったとも考えられるかもしれない。
ドラマでは森親子の窮状を聞いた田沼が「幕府は旗本を養うことすらできていない」と訴えた。
ここから100年を待たずして江戸幕府は倒れるが、薩長土肥による倒幕運動より前に、すでに幕府の足元から崩れかけていたのがわかる。
とはいえ、生活苦の中で旗本や御家人が精を出したサイドビジネスが、江戸文化の一端を担っていたのも事実なのである。
《余談》
「御家人」は鎌倉時代と江戸時代とでは意味合いが異なるため注意したい。2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』での御家人は鎌倉殿(征夷大将軍)(大泉洋)の従者のことだった。北条氏や三浦氏ら有力御家人は将軍の側近であるため、当然謁見できたのである。
主要参考文献
『絵が語る 知らなかった江戸のくらし武士の巻(遊子館歴史選書 9)』本田豊(遊万来舎)『「武士」の仕事 役職・作法から暮らしまで』歴史REAL編集部(洋泉社)
『決定版 図解・江戸の暮らし事典』河合敦(Gakken)
『新版 図解 江戸の間取り』安藤優一郎(彩図社)
『図解でスッと頭に入る江戸時代』大石学(昭文社)
■放送情報
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』
NHK総合にて、毎週日曜20:00〜放送/翌週土曜13:05〜再放送
NHK BSにて、毎週日曜18:00〜放送
NHK BSP4Kにて、毎週日曜12:15〜放送/毎週日曜18:00〜再放送
出演:横浜流星、小芝風花、渡辺謙、染谷将太、宮沢氷魚、片岡愛之助
語り:綾瀬はるか
脚本:森下佳子
音楽:ジョン・グラム
制作統括:藤並英樹
プロデューサー:石村将太、松田恭典
演出:大原拓、深川貴志
写真提供=NHK






















