『ピアノ・レッスン』は民族の複雑な感情を描く デンゼル・ワシントン一家が連帯した意味

『ピアノ・レッスン』ワシントン家集結の意味

 デンゼル・ワシントンが監督、主演を務め高い評価を得た『フェンス』(2016年)。人気俳優チャドウィック・ボーズマンの遺作となった『マ・レイニーのブラックボトム』(2020年)。いずれも、アフリカ系アメリカ人の物語を書き続けてきた劇作家オーガスト・ウィルソンの戯曲の映画化作品である。このほどNetflixにてリリースされた、1930年代アメリカ南部を舞台にした『ピアノ・レッスン』もまた、オーガスト・ウィルソン戯曲の、新たな映画化作品だ。

 舞台版に出演経験のあるサミュエル・L・ジャクソンや、ジョン・デヴィッド・ワシントンがキャスティングされているほか、デンゼル・ワシントンがプロデューサーを務め、マルコム・ワシントンが監督と脚本を担当し、さらにはポーレッタ・ワシントン、オリヴィア・ワシントンも出演しているという、まさにワシントン一家が集結した映画となった本作『ピアノ・レッスン』は、まさにその“一家集結”に意味が持たされることになった一作でもある。

 本作の中心となるのは、一台のアップライトピアノだ。劇中で描かれるように、このピアノには凄まじい“一家のストーリー”が込められている。主人公たちの曽祖父の代にあたる奴隷解放以前、奴隷を所有していたサター家の当主ロバートが、黒人奴隷二人を売り飛ばし、妻への贈り物として購入したというのが、このピアノに与えられた最初のストーリーだ。

 ピアノと人間二人を交換するという“物扱い”自体が、もちろん残酷なことだといえるのだが、より残酷なのは、奴隷の家族、チャールズ家が離ればなれになることを余儀なくされたことだ。ドッグブリーダーであるかのように奴隷主は人間を扱い、家族を作らせて引き裂いていく。観客が知識としてこの種の行為が現実におこなわれていたことを知っていたとしても、その光景を映像として観ると衝撃を受けるところがある。こういった構図は、一部の例外を除き、かつてアメリカ映画が描くことを避けてきた歴史なのである。

 ピアノを贈られたものの、“お気に入り”の奴隷がいなくなってしまったことを悲しんだ妻を慰めるため、その後ロバートは木工職人でもある奴隷に、いまは遠くへ行ってしまった二人の奴隷の顔を、木彫りでピアノに象らせることにする。その職人こそが、妻と子をピアノのために売り払われた夫その人だったのだから、話はさらに悲惨だ。

 とはいえ、奴隷は自らの命を守るために主人の命令に従わなくてはならない。彼は、言いつけ通りに妻と子の顔をピアノに彫り込んでいくが、せめてもの抵抗として、妻と子だけでなく、他の家族の姿までをもピアノに象るのだった。そのことで、このピアノはサター家の所有でありながら、奴隷だったチャールズ家の意志と歴史がこもったピアノとして意味づけられていく。

 奴隷解放宣言ののち、奴隷主への恨みや家族への思慕がつまったピアノを、ついにチャールズ家の人々は盗み出す。追手によって殺害される者を出しながら、ピアノはチャールズ家のものとなったのだ。その後、ロバート・サターが井戸に落ちて死亡するなどの未解決事件が発生し、事態は混迷をきわめる。このような出来事によって、ピアノはさらに“いわくつき”の代物となっていったのである。

 本作では、そんなピアノを売ろうとする、チャールズ家の末裔ボーイ・ウィリー(ジョン・デヴィッド・ワシントン)と、売ることに反対する姉のバーニース(ダニエル・デッドワイラー)との対立が描かれる。この二人の父親は、ピアノを盗んで殺されたボーイ・チャールズなのである。いわばピアノは、家系図であると同時に、姉弟の父の身代わりのようなものなのだ。つまり、一家の“魂”、父親の“命”を売るかどうかというのが、この作品で示される葛藤なのだ。

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