『進撃の巨人』ラストシーンに込められた作り手の思い 現実社会とリンクするテーマを考察
そういった枠組みの作品に共通しているのは、主人公たちが正しい側に立って襲撃を受けるという構図である。しかし、現実ベースで考えれば、そう都合よく主人公たちは正しい立場をとれるものなのだろうかという疑問がわくときもある。グローバルな観点に立つと、生まれた国の政府、所属している団体が、敵方より正しいという保証はないことに気づかされるはずだ。そして、外から来る者を撃退する行為を英雄化する構図は、外国の文化や思想をいたずらに排斥する考え方の賛美に繋がったり、外国人の偏見を助長するような、自国中心主義的な見方にとらわれるおそれがある。
『進撃の巨人』では、クライマックスの前に過去を描き、エレンら調査兵団の一部が、自分たちにとって異国であるマーレの街で、さまざまな文化や発明品に触れたり、多様な民族や窮状にある難民と交流する姿が、“わざわざ時間を戻してまで”印象的に配置されている。
そして彼らはエルディア人以外に素晴らしい文明が存在することや、“在マーレ”のエルディア人同様に差別されている民族が存在していることを知る。そう考えれば、外に目を向け知識を得て、自分たちを客観視できたからこそ、エレンを止めようと決断した者たちは、自国を危険にさらす結果になろうとも虐殺を回避しようとしたのだと考えられるのだ。
そしてマーレや諸外国もまた、パラディ島に対し、おそれと偏見から攻撃をしようと、憎悪を煽る演説に耳を傾けていた事実がある。エレンがそのとき、巨人の力で会場を破壊する決断に至ったのは、同胞を守るためであり、自分たちへの不当な偏見への怒りがあったためであろう。しかし、かつてエルディア人たちは、そんな巨人の力を利用してマーレの都市を次々に蹂躙し、殺戮した過去があるのも事実なのである。
これらの描写こそが、『進撃の巨人』最大のテーマを象徴していたといえるのではないだろうか。過去の出来事や地理的状況によって、人と人とが対立し、憎悪を煽り合うことで戦争や殺戮が起こる。現実における人間の歴史もやはり、その繰り返しだったのではないか。この構図は、希望を託して終わったはずの本作のエンドクレジットのアニメーションにて、皮肉にも再演されることとなる。
殺戮を止めようとしていたはずのジーク・イェーガーは、本作においては、そんな人間の進歩のない歴史を悲観し、愚かな人類が殺し合う様を座して眺める、シニカルな境地に達してしまっている。そんなジークに精神で感応するアルミンは、人間が生きる価値とは、何でもないような瞬間、瞬間に感動をおぼえることなのだと説得し、「地鳴らし」を止めることに協力させようとする。
だが同時に、「地鳴らし」から逃げ続け、生き残ろうとする人々の間ですら、民族の違いを理由にした緊張が生まれ、殺し合おうとしてしまう展開が描かれてもいる。民族による偏見や分断を反省し、生まれ変わるという内容の演説をした本人すら、やはり相手を信じきれず理想を体現し難いという愚かしさも表現されている。分断や偏見を煽り、他国をいたずらに否定したり、民族を弾圧しようとする人々は、現実の世界では絶えない。そこで本作が、理想を実現した人類の姿を描いてしまっては、作品全体が絵空ごとに終わりかねない。だからこそ本作は、このように人間の姿を描かざるを得なかったのだと想像できる。
現実におけるパレスチナとイスラエルもまた、宗教上の理由や過去の因縁などから分断されているとはいえ、本来は同じ人間という立場から手を結ぶべき存在であるといえる。しかし、そんな対立はイスラエル軍と抵抗組織ハマスとの戦いを生み、一般市民が被害を受ける争いとなった。現在はその戦力差から、一方的にガザの市民や、何の罪もない子どもたちまでもが一方的に殺害され続けている現状がある。
本作で難民の子どもたちが、なすすべなくただ踏み潰されるという、シリーズ全体においても最も残酷だといえる描写は、現実の世界で起こってきたことであると同時に、いままさに起こっていることであり、これからも容易に起こり得ることだ。もちろん、このような一方的な虐殺の構図はガザ地区だけのことでなく、ウクライナへのロシア軍の侵攻や、ナチスドイツによるホロコースト、日本で起こった朝鮮人虐殺事件など、世界中に相似形として存在しているといえよう。
そんな罪を背負ったエレンに対して、本作の描き方は同情的に過ぎる部分もあると感じられる。しかしその行動は、仲間たち、同胞を守ろうとした末のことだというのも確かなことだ。とはいえ、あらゆる戦争において、多くの執政者は「自衛」を主張し、それを理由に殺戮をおこなってきた。エレンもまた力を行使できる立場から、そのような安易な道を選んでしまった一人だったと考えることができる。
本作では、エレンは自分を「馬鹿」だと振り返り、さらに「どこにでもいる、ありふれた馬鹿が力を持っちまった」結果だったのだと評している。なぜ、本作においてエレンはこのようなことを言ったのだろうか。それは、現実の戦争や諍いが、短慮な人々の安易な行動の積み重ねによって生まれている“現状”を示すためだったのだと考えられる。そして、感情移入していたはずの主人公が殺戮者になる姿を見せることで、自分や自分の身近な人たちが“そうなり得る”ことをも、本作は表現したかったのではないだろうか。
エレンを止める戦いを経験した有志たちは、パラディ島の好戦派や自国中心主義に絡め取られた人々にとっては、自分たちを敵に売り渡そうとする裏切り者に映るだろう。だがアルミンたちは身の危険を感じながらも、あえて故郷に帰って融和を説く道を選ぶ。このラストシーンは、『進撃の巨人』という作品、物語を世に送り出すことで、多くの人に他者を理解する努力の重要性を知ってほしいという、原作者、作り手側の思いが作品に含まれていることを象徴するものだと考えられる。
本作『劇場版「進撃の巨人」完結編THE LAST ATTACK』を鑑賞する際には、そこで描かれているドラマと同様に、そんな渾身の思いやメッセージを受け止め、観客一人ひとりが、このテーマについて考えてほしいと、作り手側は考えているはずだ。それは、このシリーズを真の意味で尊重し、作品を味わうことでもある。
参考
※ https://www.asahi.com/sp/articles/ASP2L7D48P1WUHBI02Q.html
■公開情報
『劇場版「進撃の巨人」完結編THE LAST ATTACK』
全国公開中
キャスト:梶裕貴(エレン・イェーガー役)、石川由依(ミカサ・アッカーマン役)、井上麻里奈(アルミン・アルレルト役)、下野紘(コニー・スプリンガー役)、三上枝織(ヒストリア・レイス役)、谷山紀章(ジャン・キルシュタイン役)、嶋村侑(アニ・レオンハート役)、細谷佳(ライナー・ブラウン役)、朴璐美(ハンジ・ゾエ役)、神谷浩史(リヴァイ・アッカーマン役)、子安武人(ジーク・イェーガー役)、花江夏樹(ファルコ・グライス役)、佐倉綾(ガビ・ブラウン役)、沼倉愛美(ピーク・フィンガー役)
原作:諫山創(『別冊少年マガジン』/講談社)
監督:林祐一郎
シリーズ構成:瀬古浩司
キャラクターデザイン:岸友洋
総作画監督:新沼大祐、秋田学
演出チーフ:宍戸淳
エフェクト作画監督:酒井智史、古俣太一
色彩設計:大西慈
美術監督:根本邦明
画面設計:淡輪雄介
3DCG監督:奥納基、池田昴
撮影監督:浅川茂輝
編集:吉武将人
音響監督:三間雅文
音楽:KOHTA YAMAMOTO、澤野弘之
音響効果:山谷尚人(サウンドボックス)
音響制作:テクノサウンド
アニメーションプロデューサー:川越恒
制作:MAPPA
配給:ポニーキャニオン
©諫山創・講談社/「進撃の巨人」The Final Season製作委員会
The LAST ATTACK 公式サイト:https://shingeki.tv/movie_final/
The Final Season公式サイト:https://shingeki.tv/final/
公式X(旧Twitter):@anime_shingeki