『マッドマックス:フュリオサ』徹底解説 『怒りのデス・ロード』からの継承と新たな視点

『マッドマックス:フュリオサ』徹底解説

 『マッドマックス』シリーズ4作目にして、30年ぶりに新たに仕切り直された『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)。映画ファンの間で、もはや名作と位置付けられている作品だが、そこに登場した重要キャラクター、怒れる女性フュリオサを主人公にして前日譚を描いた、さらなる新作が、「『マッドマックス』サーガ」の一角として位置付けられた、映画『マッドマックス:フュリオサ』だ。

 凄絶な過去をくぐり抜けてきた、力強い女性フュリオサの、少女から大人へと成長していく時代を題材にしたことで、主演俳優はシャーリーズ・セロンからアニャ・テイラー=ジョイとアリラ・ブラウンに代わり、15年以上にも渡る彼女の苦難の物語が、この作品で明かされていくことになる。

 はたして、そんな本作『マッドマックス:フュリオサ』は、圧倒的な評価を得た前作の続編として、何を受け継ぎ、何をサーガに加えたのか。ここでは、その点をさまざまな角度から明らかにしていきたい。

(※以降、『マッドマックス:フュリオサ』、および『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の展開への言及があります)

 物語の起点となるのは、前作でも言及されていた「緑の地」である。そこは、「ウェイストランド(荒野)」のオアシスともいえる、植物が生い茂り果物の実が成っている楽園のような場所だ。それだけに、住民たちは外部の危険な集団に見つけられないよう、命がけで守護し秘密を隠している。だがそこに、あろうことか不穏なバイカーたちが現れた。勇敢にも彼らのバイクを壊して足止めをしようとした、緑の地に住む10歳の少女フュリオサ(アリラ・ブラウン)は、彼らに連れ去られてしまうのだった。

 バイカーたちを追いかけフュリオサを奪還しようとするのは、緑の地のバイクチーム「鉄馬の女たち」の一人であり、フュリオサの母でもあるジャバサ(チャーリー・フレイザー)だ。彼女は砂漠地帯で狙撃を繰り返しながら執念深く追跡を続け、ディメンタス将軍(クリス・ヘムズワース)が支配する暴走集団のキャンプへとたどり着く。そこで首尾よくフュリオサを奪還したジャバサは、一転して追いかけられる側となってしまう。

 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の物語を知っている観客であれば、本作の冒頭からの流れは、前作の全体の構図と対照的であることに気づくはずだ。追撃と逃走が反転する寓話こそが、まさにフュリオサという人物に襲いかかる理不尽な境遇と、復讐心や未来への希望などが絡まり合う彼女の内面に呼応しているのが、あらためて理解できる。そのように考えれば、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の主人公は、やはり実質的にフュリオサだったのだと解釈することもできるのだ。

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が放つ強い輝き より深まる『フュリオサ』への理解

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 前作の観客にとって意外なのは、本作でフュリオサの復讐の相手になるメインの悪役が、あのイモータン・ジョーではなく、新キャラクターのディメンタス将軍であったという点だろう。これはおそらく、フュリオサの物語を娯楽映画として表現する上で、必要とされた役割だったのだと想像できる。

 前作を鑑賞した観客ならば、フュリオサはイモータン・ジョーの「子産み女」の一人にされ、筆舌に尽くし難い苦痛を受ける境遇を経験したことで、直接手を下したジョーに積年の恨みが積もり積もっていたのだと想像していたはずだ。もちろん作り手側も、演じたシャーリーズ・セロンもそういう前提でキャラクターを造形していたはずである。

 しかし、その悲痛な時代の物語をいよいよ娯楽大作映画に落とし込むとなったときに、果たしてそういった胸の痛くなりそうな内容を多くの観客が劇場に足を運んでまで観たいのかという問題が発生してしまうのは必然だろう。そのため、ここではフュリオサはイモータン・ジョーのハーレムに加わることを強制されるも、直接的な加害からは逃れるといった展開が用意されている。

 この作中世界での二つの作品の間に存在する差異は、本作の冒頭に登場する語り部が示すように、マッドマックスサーガを語るそれぞれの人物によって、異なるかたちで成立したものなのだと認識できないこともない。実際に、結末のさまざまな可能性が本作でいくつも提示されたていたが、本作の物語そのものもまた、そんな無数の道筋の一つでしかないということなのかもしれない。ただ結果として、前作におけるフュリオサの個人的なジョーへの怒りの描写が、今回の映画の内容によって、幾分弱くなってしまった印象を受けることは否めない。

 そういったショッキングな描写の回避に加えて、観客を満足させるために、本作のなかだけで、ある程度フュリオサの戦いが報われるようなカタルシスを発生させなければならないという事情もある。娯楽作品としては、どうしてもただ虐げられている立場を描いていくだけでは成立し得ないところがあるのだ。そこで物語の性質上、ジョーに復讐ができない分、ディメンタス将軍が、復讐を遂げる相手として代わりに登場してもらわなければならなかったというわけだ。

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