“客人”の映画作家ヴィム・ヴェンダース “スランプ”を経て『PERFECT DAYS』に至るまで

 そうだとしても『PERFECT DAYS』には無視しがたい魅力がある。ふだん東京に生きている者としては、観光客と違って東京スカイツリーにはなんの感慨も湧かないし、興味もない人が多い。ところが、ヴェンダースにかかるとなぜかそんな東京スカイツリーさえもが、小津安二郎映画におけるガスタンクのように、ユーモアと哀感をもって主人公(役所広司)の視線の先に気前よく屹立していたりする。ヴェンダースが上記のような座組みに対してどのような距離感をもって本作の製作に従事したのかは、判然としない。

 ひょっとするとこの胡散臭い座組みも含め、これほど日本映画らしい日本映画は今日、存在しないのかもしれない。筆者は文頭でもヴェンダースがつねに「客人」であることに意識的な映画作家だと述べた。その「客人」たる資質が十二分に発揮されたのが、今回の『PERFECT DAYS』ではないか。本作の最大のテーマである「木漏れ日」にしてもそうだが、すべては過ぎゆくかりそめであり、責任を取ろうにも振り返る間もなく事物はあっというまに後ろへ去っていってしまう。主人公に何人かの人々がからんでくるが、結局のところ彼らは主人公の横を通り過ぎたにすぎない。主人公もセンチメンタルになるのはその当日の晩までであり、次の朝にはカラッとして前だけを見ている。あらゆるノスタルジーがこの無粋な男からは抜け落ちている。彼の視界ではバックミラーは黒く塗りつぶされている。

 主人公のもとに家出した姪(中野有紗)が押しかけてきて、しばらく仲良くいっしょに暮らすことになり、他者との深い関係性を拒絶した独身機械たる主人公としてはめずらしい日々となる。ある夕景の中、隅田川にかかる桜橋を、伯父と姪の運転する2台の自転車が並走して渡る。このきわめて美しい数ショットは、もちろん小津安二郎『晩春』(1949年)における原節子と宇佐美淳へのオマージュであろう。「この川を下ると海になるの?」「そうだな」「海に行きたい」「こんどな」「こんどって、いつ?」「こんどはこんど、今は今」

 「こんどはこんど、今は今」。これこそヴィム・ヴェンダースが途切れることなく、自身の映画生活においてやり果せてきたことである。今のこの時だけ、私とあなたは一緒にいる。しかし明日はもうそうではないだろう。墨田区の向島と台東区の浅草を渡す桜橋は、数学記号「X」字型の独特な形象をもつ。離れていたAとBがある地点で交わり、しばしの時間を並走しつつ、また離れていく。ヴェンダースを観てきた方なら誰もが、『まわり道』(1975年)の前半で、主人公リュディガー・フォーグラーを乗せた列車とハンナ・シグラを乗せた列車がしばし並走し、たがいに見知らぬこの男女が車窓と車窓で見つめあったあと、別々の線路に沿って分岐していくシーンを思い出すことだろう。リュディガー・フォーグラーは旅に出るために母親と別れたあと、次のように語っていた。

「母のことは遠く離れてからなつかしく思い出すのだろう。じき感傷もなくなった。天気がいい。カモメが乱れ飛んでいた。線路に沿う水路が印象的だった」

 感傷も消えた孤独な独身者の視線の先に不意に現れる、線路に沿う水路。『PERFECT DAYS』における首都高速の異様な光景も、東京スカイツリーの変な形状も、いくどとなく自転車で渡る桜橋も、隅田川の美しい水景も、『まわり道』の水路と同じである。日本財団のしかけたトイレ事業はこれらの光景に比べれば、何者でもない。主人公の役所広司はこれらのトイレで用をたすことさえしないだろう。これらのトイレたちも過ぎゆく「客人」の往来する雑踏の変種にすぎない。『まわり道』のラストでリュディガー・フォーグラーとハンナ・シグラ、ナスターシャ・キンスキーは、「そのへんの雑踏でなにげなく別れよう」と話し合っていたではないか。

 カンヌでパルムドールを受賞した『パリ、テキサス』(1984年)の主人公(ハリー・ディーン・スタントン)は、生き別れとなっていた妻(ナスターシャ・キンスキー)と幼い息子(ハンター・カーソン)をせっかく引き合わせたばかりだというのに、自身はそそくさと車で逃げ去ってしまう。なんともやりきれないラストだったが、ヴェンダース映画の主人公はハリー・ディーン・スタントンも、リュディガー・フォーグラーも、今回の役所広司も、家庭の幸福なんてまったく眼中にない。勝手気ままに生きている。妥協がない。

 役所広司が演じた主人公は地味な生活で意外と貯金を怠っていないのかもしれず、彼は世捨て人でもなければ、野垂れ死もしないだろう。その日その日をどうすれば機嫌よく暮らせるか。どうやら名家の出身らしいことを窺わせるシーンがあったから、おそらくあらかじめ敷かれたエリート街道に対する嫌悪感が、彼の精神を壊してしまったのだろう。私たちが街で彼を見かけて挨拶しても、おそらく彼は無言でわずかに頷くだけだろう。かつて若手の筆頭株だったヴィム・ヴェンダースも来年は80歳を迎える。無言でわずかに頷くだけの無骨な挨拶のような「客人」の映画をたくさん作ってほしいと、老いた彼に期待したい。

■公開情報
『PERFECT DAYS』
全国公開中
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース、 高崎卓馬
製作:柳井康治
出演:役所広司、柄本時生、中野有紗、アオイヤマダ、麻生祐未、石川さゆり、田中泯、三浦友和
製作:MASTER MIND
配給:ビターズ・エンド
2023/日本/カラー/DCP/5.1ch/スタンダード/124分
©︎2023 MASTER MIND Ltd.
公式サイト:perfectdays-movie.jp

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